盆の幽霊:恐ろしい盆踊りに隠された死者の舞と消えた少女の謎
長野の山里で起こった盆踊りの怪異と綾芽を襲う死霊の恐怖
八月の終わり、蒸し暑い夜気が肌にまとわりつく。都会の喧騒から逃げ出すように、十八歳の綾芽(あやめ)は友人たちと共に長野県の山奥にある静かな町「白鷺(しらさぎ)」を訪れた。
この町では、毎年「盆踊り祭り」が盛大に行われるという。祖先の霊を迎える儀式として、古くから受け継がれている伝統の祭り。都会育ちの綾芽にとって、それはどこか幻想的で、少し不気味でもあった。
「ねぇ、あやめ!もうすぐ始まるって!」
友人の美沙が浴衣姿で手を振る。
綾芽も藍色の浴衣を着ていたが、その胸の奥では小さな不安がざわめいていた。理由はわからない。ただ、町に着いた瞬間から背筋が冷たくなったのだ。
「なんか、空気が重いね……」
「えー?そう?田舎の夜だから静かなだけでしょ?」
笑う美沙の声を聞きながら、綾芽は頷いた。だが、祭り会場へ向かう道すがら、田んぼの間に並ぶ無数の灯籠が風に揺れ、その灯がまるで無数の瞳のようにこちらを見つめている気がした。
広場に着くと、提灯が並び、櫓の上では太鼓が鳴り響いていた。太鼓の音が空に響くたび、地面がわずかに震える。輪になって踊る人々の笑顔、屋台の灯、浴衣の柄。どれも懐かしくも温かい光景――のはずだった。
「綾芽、行こう!一緒に踊ろう!」
美沙に腕を引かれ、綾芽は踊りの輪に入った。周囲の人々が手拍子を打ち、楽しげに笑う中、綾芽も見よう見まねで動きを合わせた。
しかし、太鼓の音が一際強く鳴り響いたその瞬間、空気が変わった。
周囲の笑い声が遠ざかり、音が歪む。
視界の端がゆらぎ、提灯の光が不自然に暗くなった。
「……?」
綾芽が周囲を見回した瞬間、彼女の息が止まった。
――踊っている人々の顔が、死人のように青白く変わっていた。
頬はこけ、目は真っ白に濁り、唇は紫色に染まっている。
浴衣の袖から覗く腕には、黒い焼け跡のようなものが浮かび上がっていた。
「……なに、これ……」
綾芽は後ずさる。だが、周りの誰も気づかない。
美沙も、他の友人たちも、笑いながら踊り続けていた。
まるで彼女にだけ、異界が見えているかのように。
ふと、綾芽の視線が櫓の上の太鼓打ちに向かう。
その男の腕は骨のように細く、太鼓を打つたびに皮膚がずるりと剥がれ、白い骨が覗いた。
「おかえり……綾芽ちゃん……」
男が口を開いた瞬間、周囲の死人たちが一斉に彼女を見た。
「きゃあああああっ!!!」
綾芽は悲鳴を上げ、輪から飛び出した。
「綾芽!?どうしたの!?」
美沙が声を上げるが、綾芽の耳にはもう届かない。
彼女は屋台の間をすり抜け、神社の裏山へと逃げ込んだ。
足元の砂利が音を立て、呼吸が荒くなる。
背後からは、まだ太鼓の音が聞こえてくる。
トン……トン……トン……。
「いや……来ないで……!」
振り返ると、松明を持った影がいくつも揺れていた。
よく見ると、それは首の曲がった女や、片目を失った男たち。
彼らは笑いながら綾芽に手を伸ばしていた。
「一緒に……踊ろう……」
「帰れないんだ……君も……」
綾芽は泣き叫びながら駆け上がった。
やがて神社の境内に辿り着く。そこには古びた祠があり、誰もいないはずなのに、線香の香りが漂っていた。
「助けて……!」
綾芽は祠にすがった。その瞬間、背後から低い声が聞こえた。
「その場所に、死者を呼んだのは……お前だ」
綾芽が振り返ると、白い着物を着た老婆が立っていた。
しわだらけの顔に、まっすぐな黒い瞳。
「お前の家系は、かつてこの町の供養を絶った。盆の霊たちは、長い間、帰る灯を失って彷徨っていたのだ」
「わ、わたしには……そんなこと……!」
「知らぬでは済まぬ。血は受け継がれる。お前の祖母が、火を絶やした夜から……この町は呪われておる」
老婆の声が消えた瞬間、風が吹き抜けた。
綾芽の足元の土がひび割れ、冷たい手が無数に地面から伸びてきた。
「ひっ……!」
「返せぇ……返せぇぇ……」
白い手が綾芽の脚を掴み、引きずり込もうとする。
「いやあああああ!!!」
綾芽は必死に抵抗し、祠の鈴を掴んで振った。
鈴の音が鳴り響くと、突然、世界が歪んだ。
気づけば、彼女は祭りの広場に立っていた。
提灯が再び灯り、人々が踊っている。
しかし――踊りの中心には、白い顔の「自分」がいた。
表情のない綾芽が、ゆっくりと笑った。
「ようこそ……こちらの世界へ」
「……やめて、私じゃない!」
綾芽は叫んだ。だが、誰も彼女を見ない。
友人の美沙が近くを通る。
「綾芽、早く!次の曲だよ!」
美沙は笑って手を振った。その腕の影が一瞬、黒く濁った。
綾芽は震えながら後ずさる。太鼓の音が再び始まる。
トン……トン……トン……。
音に合わせて、死人たちが踊る。
その輪の中に、美沙も、他の友人も加わっていた。
全員、笑顔で――だがその瞳は虚ろで、魂の抜けたようだった。
「嫌……やめてぇぇぇ!!!」
綾芽は泣き叫び、輪の外へ走った。
しかし、逃げる先々で太鼓の音がついてくる。
まるで空気そのものが音を響かせているようだった。
「トン……トン……トン……」
耳を塞いでも、頭の中で鳴り続ける。
「返せ……火を……返せ……」
無数の声が重なり、綾芽の意識が白く染まる。
その瞬間、提灯が一斉に消えた。
闇の中、櫓の上に老婆が立っていた。
「お前が戻さねば、霊たちは永遠に踊り続ける……」
老婆は手を伸ばした。
綾芽の胸に温かい光が宿る。それは、彼女の祖母が昔くれたお守りだった。
「……おばあちゃん……」
涙がこぼれる。
綾芽は祈るように両手を合わせた。
「この灯りを……霊たちに返します……!」
その瞬間、光が広がり、太鼓の音が止んだ。
風が吹き抜け、死人たちの姿がゆっくりと消えていく。
静寂――。
綾芽は倒れ込んだ。
そして、意識を失った。
――翌朝。
朝日が昇る中、祭りの広場には、何事もなかったかのように静かな風が吹いていた。
ただ一つ、櫓の前に小さな団扇が落ちていた。
その団扇には、焦げ跡とともに、うっすらとした指の跡が残っていた。
美沙たちは綾芽を探し続けたが、彼女の姿はどこにもなかった。
警察も動いたが、手がかりはゼロ。
町の老人たちは、ただ一言だけ言った。
「今年も、盆の夜にひとり、連れていかれたんだな……」
それ以来、「白鷺町」では盆踊りは行われなくなった。
だが八月十五日の夜になると、誰もいない広場から微かに太鼓の音が聞こえるという。
トン……トン……トン……。
その音に混じって、少女の声が囁く。
「ねぇ……見える? 一緒に……踊ろうよ……」
提灯の灯りが一つ、風に揺れて消える。
次の瞬間、背後にふっと冷たい風が通り抜けた。
振り向いた者は誰もいない。
ただ、どこからか浴衣の裾が揺れる音だけが聞こえた。
――綾芽は、今もまだ踊り続けている。
この世とあの世の境で、帰れぬ魂たちとともに。
「次の灯は……あなたの番かもしれないね……」

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