母の幻影と家に囁く顔のない女
母は幽霊だった
「お母さん、ただいま。」
私は玄関の扉を開けながら声をかけた。
いつものように、母の優しい声が台所から返ってくる。「おかえり、詩織。今日は寒かったでしょ?」
私はコートを脱ぎながら笑った。「うん、雪が降りそうな空だったよ。」
母は味噌汁の湯気の向こうに立ち、昔と変わらない穏やかな笑みを浮かべていた。
ただ一つだけ違ったのは――彼女は五年前に亡くなっているということだ。
***
母が亡くなったあの日、私は東京の大学にいた。
電話口で父の震える声が告げたのは、突然の交通事故。
「即死だった」と医師に言われたが、私は信じられなかった。
それ以来、家には帰っていなかった。父は失意のうちに体調を崩し、その翌年に亡くなった。
そして私は、両親を失った実家に、五年ぶりに戻ることにした。
「何も変わってないね……」
埃をかぶったアルバムや色あせたカーテン、時間が止まったような家。
だが、その中心には、まるで五年前のままの母がいた。
私は、頭がおかしくなったのかもしれないと思った。
でも、彼女は毎日そこにいた。
食事を作り、洗濯をし、私の話を聞いてくれる。
「お母さん……あなた、本当に生きてるの?」
ある晩、私は問いかけた。
母は一瞬、目を伏せたが、すぐに微笑んだ。「何言ってるの。私はここにいるわ。」
私は震える手で母の頬に触れようとした。
その瞬間、冷たい空気が流れ、母の姿がかすんで消えかけた。
「……やっぱり……幽霊なの?」
母は静かにうなずいた。
「詩織、ごめんなさいね。あなたを一人にして……でも、あなたが戻ってきてくれて、嬉しいの。」
***
その日から、私は母の霊と共に暮らすようになった。
母は、人間だったころと変わらず私を気遣い、優しくしてくれた。
しかし、奇妙なことも起き始めた。
夜中に何かが壁を引っ掻く音。
玄関の扉が勝手に開き、足跡だけが廊下に続く。
鏡には、私と母の他に、知らない女の影が写る。
ある夜、私は夢を見た。
夢の中で、母が血まみれの姿で立っていた。
「詩織……逃げて……あの女が……」
その声は、今までの母とは全く違う、怯えた声だった。
目覚めた私は汗だくで息を荒くしていた。
だが、部屋の隅に、長い髪の女が立っていた。
顔が無い。
その女が私に近づくと、私は気を失った。
***
目を覚ますと、母が私の側にいた。
「あの女……誰なの……?」
私は震える声で聞いた。
母は、言いづらそうに唇を噛んだ。
「あの女は……私じゃないの。」
「え……?」
「本当の“私”は、もうここにはいないのよ。」
私の背筋に冷たいものが走った。
「私はね、詩織……
お母さんの“思念”なの。
あなたが会いたいと強く願った心が作った、記憶の中の私。」
「じゃあ……あの顔の無い女は?」
「それは……本物の幽霊。
この家に取り憑いている、誰かの怨念。」
「誰かって……」
母は、俯いて小さく呟いた。
「……私を轢いた、女よ。」
私は言葉を失った。
母の死因は交通事故だった。
その運転手が、この家に?
「その女は、事故の後、罪悪感に苛まれて自殺した。
でも、彼女の魂は彷徨い、私の魂とこの家に縛られてしまったの。」
***
その夜、私は書斎で昔の新聞記事を漁った。
母の事故の記事には、加害者の名前が載っていた。「藤森加奈(ふじもり かな)」
その名前で調べると、事故の半年後に川で溺死したという記事が見つかった。
自殺か事故かは不明、と書かれていた。
「あなたのせいで、私の人生は終わった」
その女の霊が、母の霊をこの家に縛り付けているのだ。
そして、私の存在も、母を成仏させることを妨げていた。
母を自由にするには、私がここから離れるしかない。
でも、その夜、鏡に異変が起こった。
鏡の中で、顔のない女が、こちらを見ていた。
私は反射的に鏡を割った。
だが、破片の一つ一つに、あの女の顔が浮かんでいた。
「詩織……助けて……」
女の声が耳元で囁く。
私は鏡の破片を持ち、仏壇の前に座った。
「お母さん……私、あなたを解放する。」
線香に火をつけ、母の写真を前に祈る。
突然、部屋の空気が凍りついたように冷たくなり、背後から足音が迫った。
「あなたが代わりになって……」
女の声だ。
振り向くと、顔の無い女が私のすぐ後ろに立っていた。
その手が私の首に触れた瞬間、
母の声が響いた。
「この子には手を出させない!」
部屋が光に包まれ、女の霊は悲鳴を上げて霧のように消えた。
私は母の霊が、微笑みながらこちらを見るのを見た。
「もう、大丈夫。あの子も、やっと許されたのね。」
「あの子って……」
母は静かに言った。
「加奈ちゃんも、本当は苦しんでた。
私を轢いたのは事故だった。彼女の心は壊れていたの。」
その時、私は理解した。
この家に縛られていたのは、母も、加奈も、そして私もだったのだ。
「ありがとう、詩織。
あなたが私を忘れず、思ってくれたから……ここまで来られた。」
母の体は、光の粒となって消えていった。
涙が止まらなかった。
***
それから、私は家を離れた。
実家は取り壊され、更地になった。
けれど、私の心には、母の微笑みが今も残っている。
結婚して子どもが生まれたある日、娘が鏡の前で言った。
「ママ、この人だれ?」
鏡には、私の後ろで笑っている、母の姿があった。
私は微笑んで答えた。
「それは……あなたのおばあちゃんよ。」
――終わり。

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