青木ヶ原樹海で客を待つ呪われた移動カフェの怪談記録

Table of Contents
青木ヶ原の怪談, 旅するコーヒー売りが幽霊に悩まされる

幽霊が通うAOKI COFFEEと彩花の終わらない樹海怪異

富士山の麓に広がる青木ヶ原樹海。その名は全国に知られているが、観光ガイドブックには決して載らない裏の顔がある。
無数の羅針盤を狂わせる磁気、迷い込んだら戻れないという噂、そして、夜ごとに森をさまよう“客”たち。
そんな場所で、あえて商売を始めた移動カフェの女主人——彩花(あやか)。
彼女のコーヒーは評判だった。深い森の冷気の中で飲む温かな一杯は、不思議と心を落ち着かせる味がしたからだ。
だが、それは生きた人間だけの話ではない。

「今日も頑張ろう」
朝6時、いつものように彩花はピックアップトラックのエンジンをかけた。
車体の横には「AOKI COFFEE」のロゴ。手書きの文字だが、どこか温かみがある。
ナビの音声が青木ヶ原へと誘うが、進むにつれて電波は途切れ、やがて機械音声は小さくノイズを混じらせた。
『……戻れ……戻れ……』
彩花は深く息を吐き、首を振る。
「怖がってたら商売にならないし……」
彼女はまだ知らなかった。この日、自分がどれほど深く“樹海の客”に踏み込んでしまうのかを——。

樹海入口に到着し、いつものように看板を立てる。「本日のおすすめ:森の朝ブレンド」。
湯気の立つコーヒーの香りが広がると、最初の客が現れた。
それは、よく来るカメラ好きの老紳士だった。
「やあ、今日もやってるね。彩花さんのコーヒーは、本当に心が落ち着くよ」
「ありがとうございます! 今日は少し肌寒いですから、ブレンドにシナモンを足してみたんです」
「ほう、それは楽しみだ」
カップを両手で包み込むようにして、老紳士は一口飲んだ。
「……ああ、いい香りだ」
その瞬間、カップの影で、もう一つの手が老紳士のカップに添えられていた。
青白く、指は長く、まるで水死体のような手。
だが、老紳士には見えていないらしい。

彩花の心臓が跳ねる。
カップを持つ老紳士の笑顔のすぐ横、誰かが顔を覗かせていた。
その顔は、森の湿気を吸った髪でびっしょりと濡れ、口元だけが不自然に吊り上がっている。
「……おいしい?」
その声は老紳士ではなく、見えない何者かがカップに問いかけていた。
「——っ!」
彩花が息を飲んだ瞬間、顔も手も霧のように消えた。
老紳士は何事もなかったかのように「ごちそうさま」と言って去っていった。

「落ち着け……見間違い……」
そう言い聞かせたものの、胸のざわつきは消えなかった。

午後3時、森の空気は一気に冷え始めた。日差しはあるのに、不気味なほど静かで、鳥の声すら聞こえない。
その静寂の中、ふいに車の影に誰かが立っているのが見えた。
——朝の女子高生だ。
「……また来たの?」
彩花は不安を押し殺して笑顔を作る。
しかし、近づいてきたその少女は、朝とはまるで別人だった。制服は乾ききっていない泥に染まり、足元は裸足。
「ねえ……」
声は湿っていて、聞き取るのがやっとだ。
「コーヒー……あげる。だから……帰りなよ」
彩花は震える手でカップを差し出した。
少女はそれを受け取り、しばらく見つめたあと——
「……帰れないよ」
と、笑った。

その笑みは、朝の無邪気なものではなく、この世のものとは思えない歪みを帯びていた。
「なんで、帰れないの?」
そう聞くと、少女はゆっくりと首を傾けた。
「だって……もう、ここを出たら“向こう”に呼ばれるから」
「向こう……?」
少女は、森の奥を指差した。その指は白く、爪が割れ、血が滲んでいる。
「森は……呼ぶんだよ。聞こえないの? ずっと前から……私を、あなたを……呼んでるんだよ」
その時——
ザザッ……
森の奥から無数の足音が聞こえた。
ドロ……ドロ……
湿った土を踏みしめるような、重く鈍い足音。

彩花は本能的に感じた。
——これは、生きている人間の足音じゃない。
「……っ!」
少女が顔を上げた。黒ずんだ瞳が彩花を見つめ、血のように赤い唇が動く。
「来たよ。みんな、あなたのコーヒー、飲みに来たよ……」
「イヤ——ッ!」
彩花は叫び、急いで車に駆け込む。
エンジンをかけようとキーを回すが、何度試してもエンジンはかからない。
ガン、ガン、ガン——
車体の外側を、何かが叩き始めた。
「いやいやいやいや……やめて……!」
窓の向こう、無数の影が車を囲んでいた。
人影……だが、生きている者ではない。
その目はすべて、車内の彩花に向いている。
「あったかい……?」
「におい……する……」
「のど……かわいた……」
それぞれがバラバラに呟きながら、窓に顔を押し付ける。ガラスがミシミシと音を立てた。

「助けて……誰か……!」
その時——
——プツッ。
無理やり切れたように、すべての気配が消えた。
風ひとつ吹かない。
まるで周囲のすべてが音を失ったようだった。

息を殺して外を覗く。
——何もいない。
「……はぁぁ……っ」
ようやくエンジンがかかり、彩花は車を走らせた。
だが、心はまだ森に囚われたままだった。

帰宅した夜、彩花は無意識にコーヒー豆を挽き始めた。
「……何やってるの、私」
時計を見ると、午前2時。
スマホが震えた。
——ピロン。
『明日は、森の奥まで来て。ちゃんと温かいのを淹れてね』
送り主:樹海の客
そのメッセージには、地図が添付されていた。
青木ヶ原の、通常の道から外れた“立入禁止区域”の奥——赤い印がついている。
「行かない……行くわけない……!」
だが、彩花の手は震えながらも、地図を保存していた。

——翌朝。
気がつけば彩花は、無意識のうちに車を発進させていた。
「違う、これは私の意志じゃ——」
そう言葉にするも、ハンドルを握る手は止まらない。

森の奥、道なき道を進む。
空気が重く、世界が灰色に沈んでいく。
やがて、開けた場所に出た。
そこには——
古びた鳥居と、無数の古い紙コップが山積みになっていた。
その一番上に、見覚えのあるロゴが印刷されたカップが置かれている。
「……AOKI COFFEE……?」
カップにはこう書かれていた。
『また、明日も来るんでしょ? 彩花さん』
背後から無数の声が囁いた。
「あったかいコーヒー、待ってたよ」
「のど、かわいたんだ」
「ずっと、ここで、待ってたんだよ」
振り返る。
そこにいたのは——
朝の老紳士、女子高生、黒いコートの男……
そして、見たことのない、無数の“客”たち。
森の奥に佇む彼らは、皆、微笑みながらこう言った。
『ようこそ、森のカフェへ。もう、帰れないけど』

彩花の喉が震えた。
それでも、なぜか口から出た言葉は——
「……本日のおすすめは、森の深淵ブレンドです。どうぞ……召し上がれ」
自分の意思とは関係なく、彼女の両手はカップを並べ始めていた。
青木ヶ原の樹海——そこで営まれる“もうひとつの”カフェ。
その店主は今日も、微笑みながら客を迎え続けている。
生者であろうと、死者であろうと——等しく、温かな一杯を。

——ただし、帰り道の保証はしない。

コメントを投稿