口裂け女伝説に取り憑かれた主婦ノモカの恐怖体験記
口裂け女の幽霊と鏡に囚われた主婦の実話風怪談
ノモカは三十歳の専業主婦で、東京郊外の静かな住宅街に夫のケンジと二人で暮らしていた。
結婚して三年目、子どもはまだいなかったが、穏やかな日常に満足していた。
「今夜から三日間、地方に出張だから。」
出発の朝、ケンジはスーツケースを片手に微笑んだ。
「大丈夫よ。気をつけてね。」
ノモカは玄関で手を振りながら、少しだけ胸に不安を抱えていた。こういう夜は決まって、マンションの廊下から、誰かが見ているような気配がするのだ。
ケンジを見送った夜、ノモカはリビングで紅茶を飲みながらテレビを見ていた。すると——
コン、コン……
玄関のドアを叩く小さな音が響いた。
「こんな時間に?」
時計は夜九時を指していた。インターホンのモニターを覗くと、小柄な老夫婦が立っていた。白髪の老人と、無表情の老婆。
「こんばんは、ご近所の者です。少しご挨拶をと思いまして。」
インターホン越しの声はやけに低く、どこか湿っている。
「え、あの……今ですか?」
ノモカが戸惑う間もなく、老婆がにたりと笑ったように見えた。
「夜分に失礼。すぐに済みますから。」
渋々ドアを開けると、二人は深々と頭を下げながら家の中を見回した。
「お二人でお住まいかと思いましたが……今夜は奥様お一人ですね。」
老人の言葉に、ノモカの背筋がぞくりと冷えた。どうして知っている?
老夫婦は何の用件も伝えず、ただ「この家は……ええ、まだ大丈夫ですな」とだけ呟き、帰っていった。
玄関の扉が閉まる瞬間、老婆が細い声で言った。
「鏡にはお気をつけて。」
その言葉が耳の奥に残り、ノモカは震えた。
その夜——
ノモカは寝室で布団に入っていた。夫がいないベッドは広く、心細さが募る。
ふと、鏡台の前に立てかけた姿見が、月明かりに照らされて不気味に光った。
「鏡には……気をつけて?」
老婆の声が頭の中で反響する。
その瞬間——
カツ、カツ、カツ……
廊下を誰かが歩く音がした。
「ケンジ……?」
思わず名前を呼んだが返事はない。
ノモカは布団を握りしめた。
カツ、カツ、カツ……その足音は寝室の前で止まる。
息を呑んだ瞬間——
ギィ……
少しだけドアが開き、闇の隙間から白い何かが覗いた。
——髪の長い、女の顔。
いや、顔と呼ぶには歪みすぎている。
唇から耳元まで裂けた口。
血のように赤い裂け目が、笑っている。
「——ワタシ、キレイ?」
声は低く、湿っていて、耳鳴りのように響く。
ノモカは悲鳴をあげることもできず、ただ固まった。
「ち、違う……これは夢。夢よ。」
そう言い聞かせた瞬間、ドアが勢いよく閉まった。
ドンッ!!
その衝撃で部屋の空気が揺れた。
ノモカは震える指でスマホを掴み、警察を呼ぼうとした。しかし——
画面には何も映らない。黒い画面の奥で、誰かがいる。自分の顔が映るはずのガラスの奥に、違う顔がある。
——裂けた口の女が、こちらを見て、笑っている。
翌朝、ノモカはふらふらと鏡を見る。そこには自分の顔が映っているはずだった。しかし——
鏡の中のノモカは……口元が裂けていた。
「いや……いやああああああ!!!」
叫んで後ずさると、鏡の中の“それ”も同じように後ずさったが、笑っていた。
ノモカは鏡を布で覆い、すべての鏡を隠した。しかし、夜になると——
覆ったはずの布が床に落ちている。
鏡の中では、裂けた口の女が、今にもガラスを破って出てきそうなほどこちらに顔を押し付けている。
「助けて……ケンジ、帰ってきて……」
涙を流しながら呟いた瞬間、インターホンが鳴った。
ピンポーン……
「ケンジ!?」
玄関に駆け寄る。しかしモニターにはあの老夫婦が映っていた。
「奥様……鏡は、ちゃんと隠されていませんな。」
老人が言う。
「あの女は、一度鏡に映った魂を離しません。それが……口裂け女というものです。」
老婆が続ける。
「ま、待って……どうすれば……どうすればいいの?」
ノモカが叫んだ瞬間、モニターの中で老婆の顔が裂けた。
ずるり、と……
口が裂け、縦に開き、笑っている。
「あなた、もう鏡に映りましたね。」
ノモカは後ずさり、リビングに逃げ込む。しかし——
リビングの窓ガラス、テレビ画面、電子レンジの表面、スマホの黒い画面……
——すべてが“鏡”になっている。
鏡という鏡に、裂けた口の女が映っている。
ノモカと同じ動きをしながら、しかし笑顔だけが違う。
「やめて……やめてぇぇぇ!!!」
ノモカはスマホを床に叩きつけた。ガラスが砕ける。しかし——
砕けたガラスの破片すべてに、その女の笑顔が映っている。
そのとき——
カツ……カツ……カツ……
背後から足音が聞こえた。
ノモカはゆっくりと振り返る。
そこにいたのは——
裂けた口の女。しかしその目は……ノモカ自身の目だった。
「——ノモカ。」
口裂け女が、ノモカの名前を呼んだ。
声はノモカ自身の声だった。
「あなた、もう……こちら側でしょう?」
裂けた口が、にたりと笑う。
ノモカは喉を震わせた。声が出ない。
女が近づく。
「鏡の中……とても静かですよ。」
女の指がノモカの頬に触れた瞬間——
——ピンポーン!!!
インターホンが鳴る。
「ノモカ?俺だ、開けてくれ!」
ケンジの声だ。
ノモカは必死に玄関へ走る。鍵を開けようとする。しかし——
玄関の内側の壁に、いつの間にか鏡が貼られていた。
鏡の中のノモカは、ケンジに背を向けている。
――笑っている。
「ノモカ?おい……なんで笑ってるんだよ……?」
ケンジの声が震える。
ノモカは叫ぼうとする。しかし口が開かない。
代わりに——
鏡の中のノモカが言った。
「——ワタシ、キレイ?」

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