姫路城の怪談:お菊の幽霊に取り憑かれた女性の恐怖体験

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姫路の恐怖, 私を追いかけるお菊の幽霊

皿を数える幽霊「お菊」が現代のOLを襲う姫路の恐怖物語

その日、私はただの出張で姫路に来ただけだった。東京の広告会社に勤める平凡なOL、三浦綾香(みうら あやか)。神社や観光地を紹介する特集記事を担当することになり、今回は「姫路城とその周辺に残る怪談伝説」を取材する仕事を任されたのだ。

普段はオフィスと自宅を往復するだけの生活。霊とか呪いとか、そういう話には一切興味がなかった。だが、編集長から渡された資料の中に「播州皿屋敷(ばんしゅうさらやしき)」という文字を見つけたとき、私はなぜか心の奥がざわついた。

姫路駅に降り立つと、秋の風が頬を冷たく撫でた。白鷺城――そう呼ばれる姫路城が、夕暮れの光を浴びて幻想的に浮かび上がっている。

「お菊井戸……」

私は資料を片手に呟いた。その井戸こそ、皿を数える幽霊“お菊”の伝説が残る場所だった。観光案内所で場所を尋ねると、年配の女性職員が少し顔を曇らせた。

「お菊井戸ですか……行くのは構いませんが、夕方以降は近づかない方がいいですよ」

「どうしてですか?」

「夜になると、声が聞こえるって。『一枚、二枚……』ってね。井戸の中から」

私は思わず笑ってしまった。「都市伝説みたいですね」

だが、彼女は笑わなかった。その沈黙が、妙に不気味だった。

午後五時を過ぎ、私は撮影を終えたあと、誰もいない城の敷地内を歩いた。観光客が帰り、空気がひどく静まり返っている。案内板の矢印に導かれ、私は「お菊井戸」と書かれた小さな木札の前に立った。

苔むした石垣の陰に、古い井戸がぽっかりと口を開けていた。井戸の周囲には小さな柵があり、夜露に濡れた木の匂いが漂っている。

「これが……お菊さんの井戸……」

私はカメラを構え、何枚か写真を撮った。その時だった。風が止まり、空気が重たく沈んだように感じた。

「……いちまい……にまい……」

かすかな声が、井戸の奥から聞こえた。

私は息を呑み、耳を澄ませた。

「さんまい……よんまい……」

——聞こえる。誰かが皿を数えている。しかも確かに、井戸の底から。

「誰かいますか!」

声をかけたが、返事はない。代わりに、冷たい風が頬を撫でた。その瞬間、視界の端で何かが動いた気がした。白い袖のようなものが、井戸の縁を掠めて消えた。

「ひっ……!」

私は慌てて後ずさりし、カメラを落とした。地面にぶつかる音がやけに大きく響いた。

「気のせい、気のせい……」

自分に言い聞かせながらホテルへ戻ったが、心臓の鼓動は止まらなかった。ホテルの部屋に着き、シャワーを浴び、ベッドに入っても眠れなかった。

午前二時。

“カチン……カチン……”

陶器が触れ合うような音がどこからか聞こえる。私は枕を握りしめ、耳を塞いだ。だが、音はだんだん近づいてくる。

“カチン……カチン……一枚……二枚……”

私は跳ね起きた。部屋の明かりをつけると、机の上に置いたはずの資料が床に散らばっている。真ん中に、私が撮った井戸の写真があった。そこには、長い黒髪の女が、私の背後に立っていた。

「嘘……こんなの、撮ってない……!」

その瞬間、照明が点滅し、部屋が暗闇に包まれた。

「……一枚……二枚……九枚……一枚足りない……」

耳元で囁くような声。私は悲鳴をあげ、部屋を飛び出した。フロントに駆け込むと、夜勤の男性が驚いた顔でこちらを見た。

「どうしました?!」

「誰かが……部屋に女がいたんです!」

「お客様、申し訳ありませんが、その階に泊まっているのはあなた一人ですよ」

血の気が引いた。

結局その夜はロビーで過ごした。夜明けとともに外へ出ると、冷たい朝の空気が頬を刺した。私はふらふらと神社へ向かい、地元の神主に事情を話した。

神主は静かに頷いた。「お菊さんは、十枚の皿のうち一枚を失い、殺された女です。今もその一枚を探している。あなた、井戸の近くで何か落としませんでしたか?」

私はハッとした。逃げるとき、バッグを置きっぱなしにしたのだ。中には社員証と録音機が入っていた。

「おそらく、それを“欠けた一枚”と勘違いしているのかもしれません」

「どうしたらいいんでしょう……?」

「井戸に戻り、心から詫びなさい。そして、声が九枚まで数えたら、あなたが“十枚”と数えるのです。それでお菊の魂が少しでも救われるかもしれません」

私は夕暮れ時、再び姫路城へ向かった。観光客の姿はもうなく、空気がしんと静まり返っている。井戸の前に立つと、風が止まり、空の色が急に暗くなった。

「お菊さん……ごめんなさい……」

私は震える声で言った。その瞬間、井戸の底から水音が響き、低い声がした。

「一枚……二枚……三枚……九枚……」

私は唇を噛み、目を閉じて叫んだ。「十枚……!」

静寂が訪れた。次の瞬間、井戸の中から柔らかな光が溢れ、私の足元を照らした。

「ありがとう……」

その声は、悲しみではなく、安堵の響きを帯びていた。涙が頬を伝った。私はそっと手を合わせ、その場を後にした。

ホテルに戻ると、机の上に置いていたはずの資料がきちんと整頓されていた。その上には、一枚の古い皿が置かれている。白地に青い花模様。だが、縁には小さなひびが入っていた。

「……これが、最後の一枚……」

私は静かに皿を両手で包み、胸に抱いた。その夜、不思議なことに、部屋の照明は一度も揺れなかった。

翌朝、会社に戻ると、編集長が笑顔で私を迎えた。

「三浦さん、あの記事すごいよ。録音も完璧だ。最後に“ありがとう”って声が入ってて、臨場感がすごい!」

私は固まった。録音機は井戸のそばに落としたままなのに……。

「編集長……その声、本当に入ってたんですか?」

「うん。女性の声で、すごく優しい感じだったよ」

私は黙り込んだ。お菊の声だと確信していた。

その夜、帰宅して眠りにつこうとした時、夢の中でまた彼女の姿を見た。

白い着物を着た女が、静かに私の前に立っている。

「あなたのおかげで……皿は十枚になったわ」

「……よかった……本当に……」

女は微笑み、やがて薄い霧のように消えていった。その微笑みは、どこか寂しくも穏やかだった。

翌朝、枕元にあの皿が置かれていた。ひびは消え、まるで新品のように輝いていた。私は驚きながらも、その皿を窓辺に飾った。

だが、数日後のことだった。

夜遅くまで残業をしていた帰り道、オフィスの玄関を出ようとしたとき、エレベーターの鏡に一瞬、長い黒髪の女が映った。

心臓が止まりそうになった。だが振り向くと、誰もいなかった。

“カチン……”

小さな陶器の音が耳の奥に響く。

「……まさか……まだ、終わってないの……?」

翌朝、机の上の皿が割れていた。中心から、まるで指で押し割ったような跡があった。私は震えながら、その破片を集め、封筒に入れて神社に持って行った。

神主は破片を見つめ、静かに言った。

「お菊さんの魂は、完全には消えていません。あなたと繋がってしまったのです」

「どうすれば……」

「恐れず、感謝しなさい。彼女は恨みよりも、救いを求めている。あなたが恐れない限り、害はありません」

私は深く頷いた。帰り道、夕陽が姫路城を黄金色に染めていた。

そして、そのとき確かに聞こえた。

「——ありがとう、綾香」

振り向いても誰もいない。ただ、風がやさしく頬を撫でた。

あれから一年。私は霊を信じるようになった。

そして今も、記事の最後にこう書き加えることにしている。

“この世界には、悲しみと感謝の狭間で彷徨う魂がいる。どうか、その声に耳を傾けてほしい。”

机の上の皿は、今も割れずにそこにある。光を受けて、かすかに青く輝いている。

それはまるで、救われた一つの魂が、今も私を見守っているかのようだった。

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