地蔵の微笑と少女の罪―子どもを嘲った報いの恐怖
怒れる地蔵の霊が導く高校生少女の恐怖体験
放課後の校門を出た瞬間、綾香はまた背後に冷たい視線を感じた。
「……まただ。」
振り向いても、誰もいない。夕焼けが赤く校舎の窓を染め、風が枯れ葉を転がしていく。胸の奥が妙にざわついた。
ここ数週間、彼女のまわりではおかしなことが続いていた。夜、自分の部屋の窓の外から、子どもの笑い声が聞こえるのだ。
「きゃっ、きゃっ……」
まるで何人もの子どもが遊んでいるような、楽しげで、でもどこか湿った笑い声。
最初は空耳だと思った。しかし、その夜、机の上に置いていた筆箱が勝手に転がり落ちたとき、綾香の背中は凍りついた。
「……誰?」
その瞬間、部屋の片隅に小さな影が見えた。赤い帽子をかぶった子どもが、壁際に立っていたのだ。
「やめてよ……!」
思わず叫んだが、影はすぐに消えた。けれど、その晩から夢の中に必ず現れる存在があった。
夢の中で、綾香はいつも知らない寺の境内に立っていた。そこには古い石の地蔵が並び、赤いよだれかけをつけて静かに立っている。
「お地蔵さま……?」
近づくと、その中のひとつが微かに笑ったように見えた。だが、その笑みは温かさではなく、どこかぞっとする冷たい微笑だった。
「綾香さん……」
夢の中で声が聞こえた。幼い声が、すすり泣くように。
「どうしてあんなことしたの?」
――どうして?
綾香は答えられなかった。目を逸らした瞬間、足元に無数の小石が積まれているのが見えた。それは子どもたちが死後、天国へ渡るために積む石だと聞いたことがある。
「やめて……私、悪くない……」
叫んだ瞬間、地蔵の目がゆっくりと開いた。
次の日、学校で友人たちにその話をしたが、誰も信じなかった。むしろ彼女はクラスで陰口を叩かれるようになった。
「また綾香、子どもに嫌がらせしてたんでしょ?」
そう、彼女には秘密があった。近所の公園で、小学生の子どもたちをからかって泣かせるのが癖になっていたのだ。
「泣き顔が面白いんだもん。」
そう笑っていた自分の顔を、今思い出すだけで吐き気がした。
夜、またあの夢を見た。地蔵の目が彼女を見下ろし、無数の子どもがその周りで石を積んでいる。
「返してよ……」
「返してよ、私たちの笑顔を……」
子どもたちの声が重なり、境内に風が吹き荒れる。
綾香は地面に崩れ落ち、耳をふさいだ。だが、どんなに塞いでもその声は消えない。
そして、地蔵の唇が動いた。
「汝、幼きものを嘲る者――己が業を背負え。」
その声は、低く、地の底から響くようだった。
目を覚ましたとき、綾香は汗で全身が濡れていた。だが、夢ではなかった。机の上には、誰かの小さな手形が泥で残っていた。
そして、窓の外には赤い帽子をかぶった影が、じっとこちらを見ている。
「いやぁぁぁぁっ!」
彼女は叫びながら部屋を飛び出した。しかし、階段の途中で足を滑らせ、転げ落ちた。
そのとき、廊下の端に――
あの地蔵が立っていた。
赤いよだれかけをつけ、微笑みを浮かべたまま。
次の朝、綾香は自宅の階段の下で発見された。顔には安らかな笑みを浮かべ、手の中には小さな石が一つ握られていた。まるで、子どもたちと同じように“石を積む”準備をしているかのように。
その後、彼女の家の前に小さな地蔵が置かれた。誰が置いたのかは誰も知らない。
しかし、夜になるとその地蔵の前で、子どもたちの笑い声が聞こえるという――。
「もう、泣かないで……」
どこからか、少女の声が重なった。それはまるで、罪を贖おうとする祈りのようだった。
――それから数日後。
綾香の葬儀には、同級生たちがほとんど来なかった。彼女は学校で評判が悪く、教師たちも「いずれこうなる気がしていた」と噂していた。だが、近所の老人だけが静かに線香を手向けながら呟いた。
「子どもを泣かせる者は、地蔵さまに見られておるんじゃ……」
その夜、葬儀が終わった後、綾香の母が寝室で奇妙な音を聞いた。
コト……コトン……と、石が積み重なる音。
眠れずに立ち上がった母は、玄関に向かった。すると、扉の外には小さな手の跡が無数に残されていた。
「……綾香?」
震える声で呼びかけると、風に乗って子どもの笑い声が返ってきた。
「きゃっ、きゃっ……おかあさん……」
そして、庭の片隅に置かれた地蔵が、月光に照らされて微笑んでいた。
数日後、近所の主婦たちがその地蔵に気づいた。赤い布が新しく、まるで誰かが毎晩取り替えているようだった。
「あの子が亡くなってから、夜になると子どもたちの笑い声が聞こえるのよ」
「きっと、地蔵さまが子どもたちを守ってるのね……」
そう言いながらも、その笑い声の中には時折、苦しげな泣き声が混ざることに気づく者もいた。
ある夜、綾香の友人のひとり、美咲がその噂を確かめに来た。彼女は懐中電灯を持ち、地蔵の前に立った。
「本当に動くの……?」
そう呟いた瞬間、電灯の光がふっと消えた。闇の中で、地蔵の顔がぼんやりと浮かび上がり、口元がかすかに歪んだ。
「綾香を……返してよ……」
美咲は息を呑み、後ずさりした。足元の地面から、子どもの小さな手が伸び、彼女の足首を掴んだのだ。
「いやっ!」
慌てて振り払うと、その手は砂のように崩れた。しかし足元には、小さな石が一つ転がっていた。
美咲は震える手でその石を拾い上げた。そこには薄く「アヤカ」と刻まれていた。
翌朝、美咲は高熱を出して倒れた。彼女の夢の中で、綾香が現れたという。
「ねえ、美咲。わたし、見たの。地蔵さまは怒ってた……」
「何を見たの?」
「わたしが……あの子たちを泣かせたから……地蔵さまは、泣いてたの……」
そう言って、綾香の姿は白い霧に溶けていった。目が覚めたとき、美咲の枕元にも小さな石が置かれていた。
それから一年後。綾香の家は取り壊され、その跡地には小さな祠が建てられた。誰が建てたのかは誰も知らない。祠の中には、赤いよだれかけをつけた地蔵がひとつだけ安置されていた。
通りかかった子どもたちはその前で手を合わせ、「ありがとう」と呟くという。
しかし、夜になると祠の前を通る者はほとんどいない。理由は簡単だ。
「夜中にあの地蔵の前を通ると、後ろから子どもの笑い声がついてくるんだって」
「しかも、もし振り向いたら……」
「どうなるの?」
「次の日、自分の家の前に、同じ地蔵が立ってるんだってさ」
風の噂は広まり、やがて村人たちは夜に子どもを叱ることをやめた。誰もが地蔵の微笑を恐れ、同時に敬うようになった。
だが、本当の意味で恐ろしいのは、地蔵が怒ったことではない。
地蔵が“泣いていた”という事実だった。
月明かりの夜、祠の前に小さな影が現れる。
それは、かつて他人の涙を笑っていた少女の影。
静かに地蔵の前で膝をつき、石を積みながら呟く。
「ごめんなさい……もう泣かないで……」
風が吹き、鈴の音が微かに鳴った。
地蔵の微笑は、ほんの一瞬だけ優しく見えた。だがその目の奥には、まだ消えぬ悲しみが宿っていた。
――罪を犯した者は消えても、その涙は地蔵の足元に残り続ける。
夜の静寂の中で、今もどこかから子どもの声が聞こえる。
「きゃっ、きゃっ……もう、泣かないで……」
それは、地蔵の微笑が見守る、終わらぬ祈りの声だった。
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