家の中で迷い続ける恐怖と白い女の呪われた屋敷
雨が降っていた。
古びた駅のホームに立ちながら、七海は濡れたスーツの袖を軽く払った。
「はぁ……本当に遠いわね」
東京本社から地方支社への一時的な転勤。期間は三か月。
会社からは「静かな場所だから仕事に集中できる」と言われていたが、七海は到着した瞬間から妙な違和感を覚えていた。
駅前には人気がなく、空は灰色で、風は湿っていた。
迎えに来ていた会社の上司、黒田は苦笑しながら言った。
「すまんな。急な異動で」
「いえ、大丈夫です」
「家は会社で借りてある。少し古いが広いぞ」
「広いんですか?」
「四人で住むには十分すぎるくらいだ」
七海と同じく転勤してきた女性社員は三人いた。
明るい性格の美咲。
無口だが優しい絵里。
そして怖がりな香織。
車に乗り、住宅街を抜け、さらに細い道を進む。
やがて森のような場所の先に、一軒の大きな家が見えてきた。
「……え?」
七海は思わず声を漏らした。
異様に大きかった。
古い日本家屋。二階建て。長い塀。黒ずんだ瓦屋根。
まるで旅館のような広さだった。
「ここですか?」
「そうだ。昔は地主の家だったらしい」
黒田は車を降りながら平然と言った。
「最近まで空き家だったが、掃除はしてある」
その言葉を聞いた瞬間、香織が小さく呟いた。
「なんか……嫌な感じする」
美咲が笑う。
「ホラー映画の見過ぎじゃない?」
だが七海も同じことを感じていた。
門をくぐった瞬間、妙な寒気が背中を撫でたのだ。
家の中は異常なほど静かだった。
畳の匂い。古い木の軋み。長い廊下。
部屋が多すぎる。
「すご……」
絵里が呟く。
「旅館みたい」
「迷いそう」
香織の言葉に全員が苦笑した。
その夜。
七海は自分の部屋に戻ろうとしていた。
だが――。
「……あれ?」
廊下を曲がっても、自分の部屋が見つからない。
右に曲がったはずなのに、また同じ階段がある。
襖の模様まで同じだった。
「おかしい……」
時計を見る。
午前一時。
十分ほど歩いているつもりだった。
だが、どこにも辿り着けない。
「美咲?」
呼んでみる。
返事はない。
代わりに、遠くで何かが軋む音が聞こえた。
ギィ……。
七海は立ち止まる。
その瞬間だった。
廊下の奥に、白いものが見えた。
長い黒髪。
白い着物。
女だった。
まるで「空き家に現れる人魂と白い着物の女の謎に迫る恐怖物語」そのもののような、不気味な光景だった。
「っ……!」
七海は息を呑む。
女は俯いたまま、ゆっくり立っていた。
顔が見えない。
だが次の瞬間。
女の首が、ありえない方向に曲がった。
「きゃあああっ!!」
七海は全力で走った。
廊下を曲がる。
また廊下。
また階段。
出口がない。
やっと部屋を見つけた時には、朝の四時を過ぎていた。
翌朝。
「私も迷った!」
美咲が青ざめながら言った。
「トイレ行っただけなのに、一時間も戻れなかった!」
「え……」
絵里も頷く。
「私も……変だった。階段が増えてた」
香織は震えていた。
「白い女見た……」
その言葉で、空気が凍った。
誰も冗談を言っているようには見えなかった。
三日間。
異常は続いた。
寝室が見つからない。
風呂場に行けない。
玄関に向かったはずなのに、気づけば二階にいる。
まるで家そのものが形を変えているようだった。
そして四日目。
朝から三人の様子がおかしかった。
美咲が熱を出し、絵里は吐き気で動けず、香織は涙を流しながら震えていた。
「誰か……いる……」
香織が天井を見ながら呟く。
「見てる……」
七海はスマホを掴んだ。
「病院呼ぶ!」
だが圏外だった。
「そんな……!」
窓の外では普通に車が通っている。
なのに、電話だけ繋がらない。
七海は玄関へ走った。
だが。
「え……?」
廊下が違う。
昨日までなかった扉がある。
薄暗い。
壁紙が剥がれている。
まるで別の家だった。
「落ち着いて……出口、出口……」
歩く。
だが、進めば進むほど空気が冷たくなっていく。
その時。
ガタン。
後ろで音がした。
振り向く。
誰もいない。
しかし天井から、水滴のようなものが落ちてきた。
ぽたっ。
赤かった。
「いや……」
見上げる。
そこに白い女が張り付いていた。
逆さまの状態で。
髪が垂れ、真っ黒な目が七海を見下ろしている。
「ぁぁぁぁぁ!!」
七海は転びながら逃げた。
襖が勝手に開く。
暗い部屋。
誰かの笑い声。
子供の足音。
「帰れ……」
「ここにいろ……」
無数の声が聞こえた。
何時間経ったのかわからない。
汗だくになりながら、七海は必死に走り続けた。
やがて。
光が見えた。
玄関だった。
七海は外へ飛び出した。
冷たい風が頬を叩く。
「はぁっ……はぁっ……!」
そのまま近所の診療所へ駆け込み、医者を呼んだ。
医者は怪訝そうな顔をしながらも家へ向かった。
だが。
「普通の家ですよ?」
医者は首を傾げた。
「え?」
「迷うような構造には見えません」
七海は言葉を失った。
確かに今見ると、普通の古い家だった。
だがあの中で感じた恐怖は本物だった。
その後、三人は少し回復した。
しかし誰も家に帰りたがらなかった。
会社でも七海は上の空だった。
パソコンを見つめながらも、頭に浮かぶのはあの家。
まるで家が生きているようだった。
帰宅途中。
七海は気づいた。
家の前を通る子供たちが、必ず走って通り過ぎている。
笑いながらではない。
怯えた顔で。
ある少年など、家を見た瞬間に泣き出していた。
「……やっぱり、おかしい」
夜。
七海のスマホが鳴った。
『もしもし? 七海ちゃん?』
「叔母さん?」
電話の相手は羽衣菜々子だった。
幼い頃から優しかった叔母である。
『新しい家どう?』
七海は少し迷った。
だが結局、家で起きている異常を話してしまった。
しばらく沈黙が続く。
そして菜々子は静かに言った。
『そう……やっぱりね』
「え?」
『小さい花瓶を送るわ。家に置いて』
「花瓶?」
『うん。今夜、娘に届けさせるから』
七海は首を傾げながらも了承した。
その夜。
「今日はホテルに泊まろう!」
美咲が半泣きで言った。
「もう無理……あの家怖い……」
全員が賛成した。
だから家には戻らないはずだった。
なのに。
気づくと四人は家の中にいた。
「……え?」
七海は凍りつく。
さっきまで駅前にいたはずだった。
なのに今、目の前には暗い廊下がある。
「なんで……!?」
香織が泣き叫ぶ。
家中から笑い声が響いた。
ドンドンドンドン。
二階から足音。
壁から無数の手が出てくる。
白い女が立っている。
今度は一人ではなかった。
廊下中にいた。
「いやああああ!!」
その時だった。
ピンポーン。
玄関のチャイムが鳴った。
瞬間。
家全体が震えた。
まるで恐怖しているように。
「……え?」
玄関の向こうに、一人の少女が立っていた。
高校の制服。
長い黒髪。
整った顔立ち。
小さな花瓶を持っている。
少女は静かに言った。
「こんばんは。七海さんいますか?」
七海は呆然とした。
「……ゆ、結衣?」
少女はにこっと笑う。
「お母さんに頼まれて来ました」
羽衣結衣。
菜々子の娘だった。
次の瞬間。
家中から悲鳴が響いた。
見えない何かが怯えている。
白い女たちが廊下の隅へ逃げていく。
「な、何……?」
七海は震えた。
結衣は平然と靴を脱ぎ、家へ上がる。
すると天井が軋み、窓ガラスが割れ始めた。
まるで家そのものが拒絶しているようだった。
だが結衣は止まらない。
「ずいぶん集まってますね」
その声は穏やかだった。
しかし異様な圧力があった。
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| 羽衣結衣:美しいエクソシストの生徒 |
七海は息苦しさを感じる。
結衣が廊下を進むたび、白い女たちは震えながら後退していく。
やがて奥の部屋に辿り着いた。
そこでは三人が床に倒れていた。
そして、その前に――。
赤いドレスを着た女がいた。
異様に長い腕。
裂けた口。
目が真っ黒だった。
ドロドロとした殺気が部屋を満たしている。
「いや……」
七海は腰を抜かした。
赤い女はゆっくり結衣を見る。
その瞬間だった。
結衣が一言だけ呟いた。
「止まりなさい」
空気が凍った。
赤い女の動きが完全に止まる。
まるで時間が止まったようだった。
「なっ……!?」
七海は信じられなかった。
結衣はゆっくり近づく。
少女とは思えないほど静かな足取り。
赤い女は震えていた。
怯えていた。
そして結衣は、その首を掴んだ。
瞬間。
眩しい白い光が溢れた。
結衣の瞳が赤く染まる。
背後に巨大な白い影が現れた。
凄まじい霊圧。
家全体が悲鳴を上げる。
「ぎゃああああああ!!」
赤い女が絶叫した。
だが結衣は無表情だった。
「消えなさい」
バンッ!!
轟音と共に赤い女が消滅する。
同時に家中の気配が消えていった。
白い女たちも、声も、足音も。
すべて消えた。
静寂。
七海は呆然としていた。
「……結衣ちゃん……あなた……何者なの?」
結衣は少し困ったように笑った。
「羽衣家は昔から、こういうの専門なんです」
「専門?」
「幽霊とか、呪いとか」
七海は言葉を失った。
あんなに可愛らしい女子高生が、あの怪物たちを震え上がらせていた。
結衣は花瓶を部屋の中央へ置く。
「これで大丈夫です。この家にいた悪い霊はもう近寄れません」
「叔母さんも……知ってたの?」
「はい。お母さん、すぐ気づいてました」
結衣は小さく笑う。
「羽衣家は、幽霊と相性が悪いので」
その言葉の意味を、七海は理解できなかった。
だが一つだけ確かなことがあった。
あの恐ろしい家が、結衣を恐れていた。
まるで天敵を見るように。
翌朝。
空は晴れていた。
まるで何事もなかったかのように、鳥の鳴き声が聞こえている。
七海はゆっくり目を覚ました。
昨夜の出来事が夢だったのではないかと、一瞬だけ思った。
しかし居間へ向かうと、床に残る焦げ跡や、割れた窓ガラスの破片が現実を証明していた。
美咲は青い顔のままソファに座っていた。
「……ねぇ、昨日のって本当に現実?」
「私もまだ信じられない」
絵里が小さく呟く。
香織は毛布にくるまりながら震えていた。
「もう帰りたい……」
七海は窓の外を見つめた。
昨夜まで感じていた異様な圧迫感は消えていた。
だが、完全に安心できるわけではなかった。
結衣という少女の存在が、あまりにも現実離れしていたからだ。
あの赤い瞳。
あの白い光。
そして、悪霊を素手で消し去った力。
「あの子、本当に高校生なの……?」
七海が呟く。
その時、台所から結衣の声が聞こえた。
「朝ごはんできましたよー」
全員が固まった。
台所にはエプロン姿の結衣が立っていた。
フライパンで卵焼きを作っている。
「えっ……?」
七海は混乱した。
昨夜の恐ろしい姿とはまるで別人だった。
結衣は笑顔を浮かべる。
「お母さんに言われたんです。七海さんたち、疲れてるだろうから朝ごはん作ってあげなさいって」
「いや、でも……」
「安心してください。今日はもう何も出ません」
結衣はさらりと言った。
その言葉だけで、なぜか空気が落ち着いていく。
四人は恐る恐る食卓についた。
味噌汁の湯気が静かに漂う。
普通の朝だった。
だが、その普通が逆に不気味だった。
美咲が恐る恐る聞いた。
「結衣ちゃんって……いつからそういうことしてるの?」
結衣は少し考えてから答えた。
「小さい頃からです」
「小さい頃って……」
「五歳くらいかな」
全員が絶句した。
結衣は平然としている。
「最初はお母さんに教わりました。悪い霊を見分ける方法とか、結界の張り方とか」
「結界……」
七海は昨夜置かれた花瓶を見る。
小さな白い花瓶だった。
見た目は普通なのに、近づくと妙に空気が澄んでいるように感じた。
結衣が言う。
「この家、かなり危なかったです」
「やっぱり何かあったの?」
結衣は少しだけ真顔になった。
「この土地、昔に一家心中があったみたいですね」
その瞬間、香織が悲鳴を上げた。
「やっぱりぃ!?」
結衣は頷く。
「でも、それだけじゃありません」
「え……?」
「長い間、空き家だったせいで、色んな霊が集まってたんです。人がいない場所って、向こうからすると住みやすいので」
七海の背筋が寒くなる。
昨夜見た白い女たちを思い出した。
結衣は味噌汁を飲みながら続ける。
「でも、中心にいたのは赤い女でした」
「……あれは何だったの?」
「怨念の塊みたいなものです。かなり危険でした」
美咲が青ざめる。
「危険ってレベルじゃなかったよ!?」
結衣は困ったように笑った。
「普通の人なら、多分取り憑かれてました」
沈黙。
全員が言葉を失う。
七海は思わず聞いた。
「……どうしてそんなに強いの?」
結衣は一瞬だけ視線を落とした。
「羽衣家だからです」
それ以上は語らなかった。
朝食後、結衣は帰る準備を始めた。
「え、もう帰るの?」
七海が驚く。
「学校あるので」
結衣は制服のリボンを整えながら微笑んだ。
その姿は、本当に普通の女子高生だった。
昨夜の恐ろしい霊圧など、とても想像できない。
玄関へ向かう途中、結衣が立ち止まった。
「でも……」
「?」
「もしまた変なことが起きたら、すぐ連絡してください」
結衣の瞳が一瞬だけ赤く光った気がした。
「次はもっと危ないかもしれないので」
その言葉に、全員の顔が引きつった。
結衣が帰った後。
家は本当に静かになった。
足音もない。
変な声も聞こえない。
迷うこともなかった。
だが七海は、夜になるたびに廊下を確認してしまう。
あの白い女が立っている気がしてしまうのだ。
数日後。
会社での仕事も少しずつ落ち着いてきた。
しかし七海の頭から、羽衣家のことは離れなかった。
昼休み。
七海は思い切って菜々子へ電話した。
『あら、七海ちゃん』
「叔母さん……結衣ちゃんのこと、聞きたいんだけど」
電話の向こうで少し沈黙が流れた。
『……見ちゃったのね』
「見ちゃったっていうか、全部見たよ!」
七海は思わず声を上げる。
『ふふ、ごめんなさいね』
菜々子は落ち着いた声で続けた。
『羽衣家は昔から、霊を祓う家系なの』
「そんな陰陽師みたいな……」
『似たようなものかもね』
七海は頭を抱えた。
現代日本でそんな話を聞くとは思わなかった。
特に「祓魔師・羽衣結衣の物語」として語られるほど、結衣の力は普通ではなかった。
『特に結衣は強いの』
菜々子の声が少し低くなる。
『あの子、霊に嫌われてるのよ』
「嫌われてる?」
『普通は人間が霊を怖がるでしょう? でも結衣の場合は逆なの』
七海は昨夜の光景を思い出す。
あの白い女たちが、結衣を見た瞬間に逃げ出した場面を。
『昔からそうだった。小さい頃、肝試しに行ったら幽霊の方が逃げたのよ』
「それ笑い話じゃないよ……」
七海は本気で震えた。
電話を切った後も、しばらく呆然としていた。
その日の夜。
七海はふと目を覚ました。
時計を見る。
午前三時。
静かだった。
だが、何か違和感がある。
七海は布団から起き上がった。
その時。
コンコン。
窓を叩く音がした。
「……え?」
ここは二階だった。
誰かが窓を叩ける高さではない。
コンコン。
また鳴る。
七海は恐る恐るカーテンを開けた。
誰もいない。
だがガラスには、無数の手形が付いていた。
「っ……!」
七海は息を呑む。
その瞬間。
部屋の隅から声が聞こえた。
『……かえして……』
女の声だった。
七海は凍りつく。
暗闇の中。
白い影が立っている。
「いやぁぁぁっ!!」
七海はスマホを掴んだ。
震える指で結衣へ電話する。
数秒後。
『もしもし?』
眠そうな声だった。
「結衣ちゃん! 出た! また出た!!」
その瞬間。
部屋の白い影が、突然苦しみ始めた。
ギギギギギッ。
骨が軋むような音。
『あ、電話越しでも逃げるんだ』
結衣が呟く。
白い影は窓を突き破るように消えていった。
静寂。
七海は震えながら床に座り込む。
『大丈夫ですか?』
「う、うん……」
『多分残りカスですね』
「残りカスって言わないで……」
結衣は小さく笑った。
『ちゃんと花瓶の近くにいてください。朝には消えてます』
その通りだった。
翌朝には手形も消えていた。
それ以降、大きな怪異は起きなかった。
だが七海たちは知ってしまった。
この世界には、本当に幽霊が存在することを。
そして、その幽霊たちすら恐れる存在がいることを。
羽衣結衣。
可愛らしい笑顔の奥に、とてつもない力を秘めた女子高生。
後日。
結衣は何事もなかったように家へ遊びに来た。
ケーキを食べながら笑っている。
だが時折、窓の外に気配が現れると、空気が震えるように静かになる。
まるで見えない何かが、結衣を恐れて近づけないようだった。
七海はその姿を見ながら思った。
この世で最も怖い存在は、幽霊ではないのかもしれない。
本当に恐ろしいのは――。
幽霊に恐怖を与える側なのだと。
翌朝。
家は普通だった。
廊下は増えない。
迷わない。
白い女もいない。
そして家の前を通る子供たちも、もう走らなかった。
ただ一人。
七海だけは忘れられなかった。
あの夜。
赤い瞳をした結衣の姿を。
可愛らしい笑顔の奥に潜む、怪物すら恐れる何かを。
そして時折、七海は思い出す。
あの家が最後に震えた理由を。
それは悪霊たちの怒りではない。
絶対的な恐怖だったのだ。
――羽衣結衣という存在への。


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