毎晩増える箸と白い女の影に怯える新婚夫婦の恐怖体験

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毎日増え続ける食事用箸を見て驚いた主婦

田舎の古民家で起きた箸が増える怪奇現象の真相

 その家に初めて足を踏み入れたとき、里美は胸の奥がひやりと冷たく沈むのを感じた。春の終わりだというのに、山に囲まれたその村の空気はどこか湿り気を帯び、古い木の匂いと土の匂いが混ざり合い、まるで長いあいだ誰かの息を閉じ込めていたかのようだった。
 けれど里美は、その違和感を「慣れない土地だから」と自分に言い聞かせ、無理に微笑んだ。結婚したばかりの若い主婦として、新しい生活に胸を弾ませるべきだとわかっていたからだ。
 白い肌に整った顔立ち、柔らかい長い髪。職場では「女優みたい」と囁かれるほどの美しさを持ちながらも、里美は決して派手ではなく、どこか控えめで静かな女性だった。だがその瞳の奥には、昔から説明のつかない不安を抱えているような影があった。
 夫の健一は明るく社交的で、里美とは対照的だった。二人は同じ会社に勤める共働き夫婦で、毎朝同じ電車に揺られ、夜は同じ道を歩いて帰る。都会の喧騒を離れ、この山間の村へ移り住んだのは、健一の「静かな場所で家庭を築きたい」という希望からだった。
「静かでいいところだね。星も綺麗だし」
 引っ越し初日の夜、健一は縁側から夜空を見上げて笑った。
「……うん、本当に静かだね」
 里美はそう答えながらも、家の奥、暗い廊下の先に続く襖へと無意識に視線を向けていた。そこだけ、闇が濃い気がした。
 最初の一週間は何事もなく過ぎた。仕事は忙しかったが、帰れば温かい食卓があり、二人で笑いながら夕食を囲む穏やかな日々だった。だが、その平穏はある小さな音から崩れ始める。
 夜九時過ぎ。里美が台所で食器を洗っていると、背後で「カタ……」という乾いた音がした。木と木が触れ合うような、細いものが倒れるような音。
 振り返ると、箸立てがわずかに揺れていた。
「……風?」
 窓は閉まっている。換気扇も止まっている。家の中はしんと静まり返っている。
 気のせいだと自分に言い聞かせ、その夜は眠りについた。だが深夜、夢の中で里美は見た。
 暗い食卓。
 知らない人々が無言で座っている。
 その中央に、山のように積まれた無数の箸。
 翌朝、胸騒ぎを抱えたまま出勤した里美は、仕事中もどこか集中できなかった。書類の文字が滲み、電話の声が遠く聞こえる。健一は気づいていない様子だった。
 その日の夜。帰宅して夕食を作ろうと箸立てを手に取った瞬間、里美は動きを止めた。
「……あれ?」
 箸が、多い。
 確かに二膳しか持ってきていない。引っ越しの際、古い箸はすべて処分した。段ボールも確認した。間違いない。
 だがそこには三膳、しかも同じ木目の箸が整然と立っている。まるで最初からそこにあったかのように自然に。
「健一、箸……増えてない?」
「え? そんなわけないだろ」
 二人で数える。
 一、二、三。
「……本当だ。でも俺、買ってないよ」
 健一は首をかしげたが、深刻には受け取らなかった。
「前の住人が忘れてたんじゃない? 古い家だし」
 だが里美は、その箸を握ったとき、背筋を這うような冷たさを感じた。冷蔵庫から出したばかりの氷よりも冷たい。
 その夜から、奇妙な音は頻繁に聞こえるようになった。
 カタ、カタ、カタ……。
 まるで誰かが几帳面に箸を揃え直しているかのような音。
 恐る恐る台所へ向かうと、箸立ての中の一本が、誰にも触れられていないのにゆっくりと傾き、音を立てて倒れた。
「……誰かいるの?」
 背後の廊下の奥に、白い影が立っていた。
 長い黒髪が顔を隠し、白い着物の裾が床を擦っている。足音はない。ただ、そこに“在る”。
 瞬きをした瞬間、影は消えた。
 翌朝、箸は四膳に増えていた。
 それから毎晩、一本ずつ増えた。
 五膳、六膳、七膳。
 増えるたびに、里美は白い影を見る頻度が増していった。台所の隅、誰かが風呂に入った後 新居の浴室に現れる女の恐怖を思わせるような浴室の曇った鏡の向こう、寝室の襖の隙間。
「どうして……うちなの?」
 ある夜、里美は震える声で問いかけた。
「あなた、誰なの?」
 白い影はゆっくりと首を傾ける。
「……まだ、足りない」
 耳元で囁かれ、里美は悲鳴を上げた。
「何が足りないの?」
 返事はない。
 十膳目が現れた頃、健一の様子にも異変が出始めた。
「なあ、この家……前に来たことある気がする」
「え?」
「子どもの頃の夢で、何度も見た。白い服の女の人が、食卓で箸を配ってる夢」
 里美の鼓動が激しくなる。
「それ、いつから?」
「ずっと昔。でも最近また見るようになった」
 その夜、突然停電した。
 暗闇の中、箸が床に落ちる音が連続して響く。
 カラン、カラン、カラン……。
 灯りが戻ると、食卓には十二膳の箸が整然と並んでいた。まるで誰かが人数分を用意したかのように。
 向かいの席に、白い女が座っている。
「揃った」
 女は低く言った。
「あと一人」
 その視線は、ゆっくりと里美の腹部へと落ちる。
 その瞬間、里美の中で何かが繋がった。最近続いている吐き気、微熱、倦怠感。
 翌日、病院で妊娠が判明した。
「おめでとうございます」
 医師の声が遠く聞こえる。
 健一は涙を浮かべて喜んだ。
「俺たち、家族になるんだな」
 だが里美は、喜びよりも恐怖に包まれていた。
 その夜、箸は十三膳になった。
 白い女は、はっきりと姿を現した。
 そしてその顔は――里美自身だった。
「あなたは……私?」
「未来のあなた」
 女は微笑む。その笑みは慈愛に満ちているのに、どこか狂気を孕んでいた。
「この家では昔、七人が死んだ。母親が子どもたちに毒を盛り、最後に自らも死んだ。でも席が足りなかった。だから私は、揃えているの」
「意味がわからない……」
「家族は、揃わなければならない」
 食卓に並ぶ十三膳。
「あなたも、やがてわかる。足りない不安が、どれほど恐ろしいか」
 里美の脳裏に、一瞬の幻がよぎる。
 泣き止まない赤ん坊。
 疲れ果てた自分。
 無表情な健一。
 そして――静かな食卓。
「やめて……」
「選んで。座るか、壊すか」
 里美は箸を掴む。
 バキッ。
 一本折るたび、白い女の体が崩れていく。
「それは未来……壊せば、あなたは――」
「いらない!」
 最後の一本を折った瞬間、家全体が激しく揺れ、どこかで爆ぜる音がした。
 次に目を覚ましたのは病院だった。
「火事だったんだ」
 健一が言う。
「原因はわからない。でも、君は無事だ」
 そして医師は告げた。
 妊娠は確認できない、と。
 数か月後、二人は都会へ戻った。
 新しいマンション。白い壁、明るいキッチン。過去を断ち切ったはずだった。だがその静寂は、眠っているはずの母の声と新居に潜む怨霊の真相を思わせるような、不気味な気配に満ちていた。
 だがある夜。
 カタ……。
 聞き覚えのある音。
 箸立てには三膳の箸。
 知らない一本が混じっている。
「……違う家なのに」
 背後で、懐かしい声が囁いた。
「まだ、足りない」
 窓ガラスに映る里美の顔が、ゆっくりと微笑む。
 その笑みは、あの白い女と同じだった。
 そして翌朝、箸は四膳に増えていた。
 物語は、まだ終わっていない。

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