眠っているはずの母の声と新居に潜む怨霊の真相
母の声を真似る霊と消えた娘の恐怖体験
春の終わり、まだ夜風に冬の冷たさがわずかに残っている頃、私――七子(ななこ)は、父と母と共に郊外の古い一軒家へ引っ越してきた。高校二年生になったばかりの私は、受験を控えているという理由で、より静かな環境へ移ることになったのだ。住宅街のはずれ、山の影が長く伸びる場所に、その家はぽつんと建っていた。周囲には似たような家が点在しているが、なぜか私たちの家だけが、少しだけ色褪せて見えた。外壁は最近塗り直されたばかりだというのに、窓の奥が妙に暗く、まるで誰かがずっと中からこちらを覗いていたかのような気配があった。新居という言葉には本来希望があるはずなのに、私は以前ネットで読んだ誰かが風呂に入った後 新居の浴室に現れる女の恐怖という話を思い出し、胸の奥に冷たい不安が広がった。
「七子、荷物それで最後か?」と父が段ボールを抱えながら振り返る。
「うん、それで全部」
母は玄関先で微笑み、春の日差しを背に言った。
「やっと落ち着けるわね。ここなら静かだし、七子も勉強に集中できるでしょう?」
私は笑ってうなずいたが、胸の奥に小さな棘のような違和感が刺さっていた。この家の前に立った瞬間から、誰かに見られている気がしていたのだ。視線の正体は分からない。ただ、玄関の奥から、じっと息を潜めている“何か”を感じた。
家の中は、思ったよりも広かった。廊下は長く、歩くたびにぎしりと軋む。天井はやや低く、圧迫感がある。二階の私の部屋は南向きで日当たりがいいはずなのに、窓際に立つと背後がひどく寒い。振り返ると、誰もいない。けれど、確かに気配はあった。
その夜。引っ越しの疲れもあり、私は早めに布団へ入った。段ボールの匂い、まだ慣れない部屋の天井。目を閉じればすぐに眠れるはずだった。
――だが、意識が沈みかけたその時。
「七子……七子……」
耳元で、はっきりと母の声がした。息がかかるほど近く、まるで私の枕元にしゃがみ込んでいるかのような距離だった。
「……なに……?」
私は薄く目を開ける。部屋は暗く、カーテンの隙間から街灯の光が細く差し込んでいるだけだ。
「七子、起きて」
確かに母の声だった。聞き慣れた、少し低めの優しい声。だが、そこに母の姿はない。私はゆっくりと体を起こし、部屋を見回した。クローゼット、机、窓の外――どこにも誰もいない。
「……お母さん?」
返事はない。ただ、廊下の時計の針が、やけに大きくカチ、カチ、と響いていた。
嫌な予感がして、私はそっと部屋を出た。廊下は冷えきっており、足裏に伝わる床の冷たさが異様だった。両親の寝室の前で立ち止まり、ドアを少し開ける。
そこには、布団で静かに眠る母と父の姿があった。規則正しい寝息。母は横向きで、いつものように穏やかな顔をしている。
「……夢?」
自分に言い聞かせるように呟き、部屋へ戻った。だが布団に入った瞬間、再び声がした。
「どうして来なかったの?」
今度は、天井からだった。
私はゆっくりと見上げる。天井の隅に、薄い黒い染みがあった。昼間は気づかなかったはずの、小さな影。それが、じわじわと広がっているように見える。
「七子……私を置いていかないで……」
私は布団を頭までかぶり、震えながら朝を待った。
翌朝、母は何事もなかったかのように朝食を作っていた。味噌汁の匂いが台所に漂う。
「七子、顔色悪いわよ?」
「……昨日、夜中に私の部屋に来た?」
母はきょとんと目を瞬かせる。
「行ってないわよ。ぐっすり寝てたもの」
父も新聞から顔を上げた。
「夜中に何かあったのか?」
私は迷ったが、天井の染みのことは言えなかった。代わりに曖昧に笑ってごまかした。
だが、その日から毎晩、声は聞こえた。最初は囁きだったものが、次第にはっきりとした呼びかけに変わっていく。
「七子……こっちへ来て……」
私は録音アプリを起動し、枕元に置いた。確かに声は聞こえる。だが翌朝、再生すると無音だった。最後に微かなノイズだけが入り、その奥から別の声が浮かび上がる。
『……返して……私の子を……』
それは母の声ではなかった。喉が焼けたような、ひび割れた女の声。
私は家の過去を調べ始めた。近所の古本屋の老店主に聞くと、重い沈黙の後、低い声で語ってくれた。
「昔な、この家には母娘が住んでいた。娘は高校生だった。だがある夜、忽然と消えた。警察も探したが見つからなかった」
「お母さんは?」
「娘が帰ってきた、と言い続けたよ。だが誰も見ていない。そしてある晩、この家の梁で首を吊った」
私は息を呑んだ。二階の天井裏を思い出す。あの黒い染み。
その夜、声はさらに近づいた。
「七子……あなたは私の娘でしょう?」
ベッドの下から、母の声がする。
恐る恐る覗き込むと、そこに“母”がいた。だが目は異様に大きく、黒目がほとんどを占め、口元は裂けるほどに歪んでいる。
「やっと会えた……」
「あなたは誰……?」
「私は母よ。あなたを待っていたの」
その瞬間、背後から本物の母の声。
「七子? どうしたの?」
振り向くと廊下に母が立っている。だが、足元に影がない。
二人の母が、同時に微笑んだ。
「七子、こっちへ来なさい」
頭が混乱する。どちらが本物か分からない。心臓が激しく打つ。
私は必死に考えた。影。呼吸。瞬き。
ベッドの下の母は、涙を浮かべていた。
「逃げなさい、七子」
その声は、本物の母の温度を持っていた。
廊下の“母”の顔が崩れ、皮膚が裂け、中から別の女の顔が覗く。首に縄の跡。目は血走り、舌が紫色に膨れている。
「返して……私の娘を……」
私は理解する。この家の母親の霊だ。娘を失い、狂い、今も探している。
だがその時、さらに恐ろしい事実に気づいた。
ベッドの下の“母”の首にも、うっすらと縄の跡がある。
「……あなたも……」
彼女は微笑む。
「私は、あの子よ」
消えた娘だった。母に囚われ、共にこの家に縛られた存在。
「お母さんは、あなたを娘にしようとしている。だから声を真似たの」
廊下の霊が叫ぶ。家全体が揺れる。天井の染みが広がり、黒い液体が滴り落ちる。
私は娘の霊に手を引かれ、階段を駆け下りた。だが玄関の前に立っていたのは父の姿。目が真っ黒で、口元から女の声が漏れる。
「家族になりましょう……」
娘の霊が叫ぶ。
「目を閉じて!」
私は目を閉じた。冷たい風が吹き抜ける。縄が軋む音。母の絶叫。
次の瞬間、静寂。
目を開けると、玄関は開いていた。だが隣にいた娘の霊は消えている。
背後から母の声。
「七子……大丈夫?」
振り向くと、いつもの母。影もある。縄の跡もない。
私は泣きながら抱きついた。
それから数日、何も起こらなかった。声も消え、天井の染みも薄くなった。私はようやく日常を取り戻したかに思えた。
だがある夕方、台所で母が料理をしているのを見て、違和感に気づく。静まり返ったはずの家なのに、どこからか小さな物音が続いているような気がした。ふと、以前読んだ誰もいない台所で鳴り続ける音と少女の正体という話が頭をよぎる。
母は左利きのはずだ。
だが包丁を握る手は右手。
「……お母さん?」
ゆっくり振り向いた母の背後、壁に映る影は――首を吊って揺れていた。
「七子……やっと家族になれたわね」
私は理解する。
あの夜、私を逃がしたのは娘の霊だった。彼女は母に抗い、私を守った。そして代わりに――母の器になった。
今ここにいる“母”は、二つの霊が重なった存在。娘を失った母と、母に縛られた娘。
天井の染みが再び広がる。
ぽたり、ぽたり、と黒い雫が落ちる。
「七子……今度はあなたが、私の娘よ」
背後から、もう一つの声。私の声だ。
振り向くと、そこにはもう一人の私が立っている。制服姿で、青白い顔。首には縄の跡。
「逃げて……」とその“私”が囁く。
理解した瞬間、全身が凍りついた。
この家は、母と娘を対にして喰らう。
どちらかが生きれば、どちらかが死ぬ。
そして役割は、少しずつ入れ替わる。
眠っているはずの母の声が、また耳元で囁く。
「七子……起きて……」
私はゆっくりと目を閉じる。
もう分からない。誰が母で、誰が娘で、誰が私なのか。
ただ一つ確かなのは――
今夜もまた、誰かが目を覚まし、誰かが眠るということ。
そしてそのたびに、家族は一人ずつ、静かに増えていく。
廊下の奥で、縄が揺れる音がする。
きし、きし、と。
私は微笑む母の背中を見つめながら、思う。
次に眠るのは、きっと私だ。
だから今夜、私は母の耳元で囁く。
「お母さん……起きて」
――眠っているはずの母の声が、重なって響いた。

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