誰かが風呂に入った後 新居の浴室に現れる女の恐怖

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浴室で幽霊を見てショックを受けた女性

毎晩濡れる浴室と白い女の正体とは

巴(ともえ)は、その日も店のシャッターを静かに下ろした。
金属が擦れる乾いた音が夜の路地に吸い込まれていく。その音を聞くたび、今日一日がようやく終わったのだと実感する。
彼女が営む生活雑貨店は、商店街の端にある小さな店だった。派手さはないが、巴自身の感性で選び抜いた器や布、季節の小物が並び、常連客も少しずつ増えていた。
照明の角度、棚の配置、ほのかに香る白檀の匂い――すべてが彼女の手で作られた空間だった。だが、こうした静かな生活空間が、誰もいない台所で鳴り続ける音と少女の正体のように、説明のつかない異変を孕んでいるとは、その時の巴はまだ気づいていなかった。

「お疲れさまでした……」
誰もいない店内に、巴はそう呟き、エプロンを外してバッグを肩に掛けた。
時計は夜八時を少し回っている。外に出ると、梅雨の名残を含んだ湿った空気が肌にまとわりついた。

数週間前、巴は夫の健司と一緒に、この街へ引っ越してきた。
結婚して三年。これまで賃貸アパートを転々としていたが、ようやく落ち着ける場所を見つけたと思っていた。だが、穏やかな夫婦の記憶や血縁が、知らぬ間に歪んでいく恐怖は、家族写真が少しずつ変わる―消えていく記憶と血縁の恐怖のように、静かに、しかし確実に忍び寄るものだった。
駅から徒歩十五分。築浅で、白い外壁が夜の街灯に淡く照らされるマンション。
オートロック、防犯カメラ、管理人常駐。
不動産会社は「女性の一人暮らしでも安心ですよ」と胸を張っていた。

だが、巴は最初の内見のときから、説明のつかない違和感を覚えていた。
玄関を開けた瞬間、空気が一段ひやりと冷える感覚。
視線の端で、誰かが立っているような錯覚。
それは恐怖というより、長く忘れていた記憶に触れたような、胸の奥がざわつく感覚だった。

「どうしたの?」
「……ううん、なんでもない」

健司はその違和感に気づくことなく、間取りや日当たりの話ばかりをしていた。
彼は都心のオフィスに勤め、日々数字と会議に追われる現実的な人間だ。
幽霊や怪談の類を信じない。

「気のせいだよ。条件もいいし、家賃も予算内だ」
「……そう、よね」

巴は自分の感覚を疑うことにした。
新生活への期待と店の準備で忙殺される日々の中で、その違和感は言葉にならない影として、心の奥底に沈んでいった。

その夜も、健司は残業で遅い。
巴は一人、マンションの長い廊下を歩き、鍵を開けた。

「ただいま……」

返事はない。
分かっている。それでも声に出さないと、この部屋に溶け込めない気がした。

照明を点ける。
リビング、キッチン、寝室。
整然とした家具、引っ越したばかりの匂い。
異常はない。

――洗面所に足を踏み入れるまでは。

床が、濡れていた。
はっきりとわかるほど、水滴が点々と広がっている。
まるで誰かが裸足で歩き回った後のように、不規則な足跡を描いていた。

「……え?」

巴はその場で息を止めた。
朝、確かに掃除をした。換気も十分にして、床が完全に乾いているのを確認した。
自分は今日はまだ風呂に入っていない。
健司も、まだ帰っていない。

それなのに。

浴室のドアをそっと開ける。
湯気はない。
だが、床も壁も鏡も、まるで誰かがさっきまで使っていたかのように、しっとりと湿っていた。
排水口からは、かすかに温い水の匂いが立ち上っている。

「誰か……入ったの?」

当然、答えはない。
換気扇だけが、低く唸るような音を立てて回っていた。

――ぽた。

静寂を裂く水の音。
確かに、浴室の方から聞こえた。

「健司……?」

返事はない。
時計を見ると、午前二時を少し過ぎていた。

――ぽた、ぽた。

その瞬間、巴は見てしまった。
洗面所の隅、照明の届かない影の中に、白い影が立っている。

長い黒髪。白い服。
濡れた髪が顔を隠し、肩を小刻みに震わせている。

――目が、なかった。

『……入ったの……』

白い女は、浴槽の中で微笑んでいた。
その顔は、巴自身と、寸分違わなかった。

そして今夜も。
健司が帰る前に。
浴室の床は、静かに、確かに、濡れている。

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