使っていない部屋の電気と消えた家系の禁忌
灯りを点けてはいけない家に生まれた女性の恐怖
その部屋の電気は、使ってはいけない。
それは単なる注意や迷信ではなく、この家に生まれた者すべてが、物心つくよりも前、言葉を覚えるよりも前から、まるで呼吸の仕方を教えられるかのように刷り込まれる絶対の掟だった。理由を尋ねてはいけない。疑問を抱いてはいけない。ただ従え。それが、この家で生き延びるための最低条件だった。
東京都下、再開発から取り残された古い住宅街の外れ。昼間は穏やかで、子どもたちの声も聞こえるが、夜になると異様なほど静まり返る一角に、その家は建っている。まるで誰かが先に帰っている―深夜の家で待つ祖母の影のように、夜になるほど人の気配が濃くなる場所だった。二階建ての木造住宅で、外壁は何度も塗り直された形跡があるが、基礎だけは異様に古く、まるで土地そのものと癒着しているかのようだった。築年数は誰にも分からない。役所の記録よりも古く、関東大震災の被害記録にも名前が残っていない。ただ、「最初からそこにあった」としか言いようがなかった。
志音(シオネ)は、その家に生まれ育った二十二歳の女性だった。大学では社会学を専攻しながら、都心の小さなオフィスで事務職として働いている。朝は早く、夜は遅い。黒髪は手入れもせず腰まで伸びているが、不思議と乱れず、整った顔立ちと相まって、周囲からは密かに美人だと囁かれていた。しかし彼女自身は、自分の容姿にも評価にも関心がなく、ただ毎日を無事に終えることだけを考えて生きていた。
そんな志音の日常に、常に影を落としている存在がある。それが、家の二階、廊下の突き当たりにある「使っていない部屋」だった。
その部屋には、扉が存在しない。引き戸も、開き戸も、襖もない。蝶番の跡すらなく、最初から“入口”として作られたかのように、四角く切り取られた空間が廊下と直結している。畳二間ほどの広さがあり、天井も低くない。構造的には完全に一つの部屋で、寝室としても書斎としても使えるはずだった。それなのに、そこには家具一つ置かれていない。畳も敷かれておらず、床板は古く黒ずんでいる。
そして、天井には一つの照明器具がぶら下がっている。時代遅れの丸型蛍光灯。いつ取り替えられたのかも分からないが、不思議なことに切れたことは一度もないという。
ただし、そのスイッチを押してはならない。
電気を点けた者は、必ず死ぬ。
それが、この家に伝わる結末だった。ただし、その“死”がどのような形なのかを、具体的に語る者はいなかった。事故なのか、病なのか、それとも自ら命を絶ったのか。曖昧なまま、恐怖だけが濃縮され、語り継がれてきた。
「ねえ、お母さん」
ある日の夕方、志音は台所で夕食の支度を手伝いながら、意を決して口を開いた。鍋から立ち上る湯気の向こうで、母の横顔はいつもよりも硬く見えた。
「どうして、あの部屋にはドアがないの?」
その瞬間、母の手が止まった。包丁は人参の途中で静止し、まな板の上に乾いた音が落ちる。ほんの数秒。しかし、その沈黙は異様に重かった。
「……その話は、しないって言ってるでしょう」
低く抑えた声。怒りというより、恐怖に近い響きが含まれていた。
「でも、理由くらい知ってもいいんじゃない? 私、もう子どもじゃないし」
「理由を知る必要はないの」
母は志音の方を見ず、再び包丁を動かし始めた。その手は、わずかに震えていた。
「あの部屋の電気は、絶対に点けない。それだけ覚えていればいいの」
志音は、それ以上何も言えなかった。家系の掟に逆らうことが、どれほどの恐怖を伴うのかを、母の背中が雄弁に物語っていたからだ。
祖父も祖母も、父も母も、叔父も叔母も、誰一人として例外はいない。全員が同じ言葉を、同じ抑揚で口にする。「点けるな」。それは呪文のようであり、祈りのようでもあった。
大学生になり、夜遅く帰宅することが増えてから、志音の意識はより強く、あの部屋に引き寄せられるようになった。廊下の電気を消すと、そこだけが異様に暗い。闇が濃縮され、奥行きが歪んでいるように見える。視線を向けていると、吸い込まれそうになる感覚すらあった。
ある夜、終電間際で帰宅した志音は、玄関で靴を脱ぎながら、説明のつかない違和感を覚えた。家の中が、静かすぎる。まるで誰かが息を潜めているような、そんな気配だった。
二階へ続く階段を上り、踊り場から廊下を見た瞬間、彼女は確信した。
――見られている。
暗い空間が、こちらを覗き返している。もちろん、目があるわけではない。それでも、明確な意志のようなものを感じた。
「……気のせいよ」
志音は自分にそう言い聞かせた。仕事の疲れ、睡眠不足、ストレス。それらが感覚を鈍らせているのだと。
しかし、その夜を境に、奇妙な現象が始まった。使っていない部屋の前を通るたび、微かな音がする。最初は風の音だと思った。次は家鳴りだと自分に言い聞かせた。だが、それは次第に、明確な輪郭を持ち始める。
「……し……お……ね……」
かすれた女の声。確かに、自分の名前を呼んでいた。
志音は、ついに立ち止まった。廊下の電気を点けたまま、暗い空間の前に立つ。心臓の鼓動が、耳の奥でうるさく鳴る。
「……誰?」
返事はない。だが、空気が変わった。湿り気を帯びた冷気が、裸足の足首を這い上がる。そこには、確実に“何か”が存在していた。
数日後、志音は大学の図書館で郷土史の資料を調べ始めた。家の住所、地番、古い地図。点と点を繋げるように読み進めていくと、ある記述に辿り着いた。それはまるで母が毎晩同じことを聞く村で起きた恐怖の真実を語るかのような謎めいた記述だった。
『〇〇村 消失事故』
明治末期、山間部に存在した小さな集落が、一夜にして消滅した事件。原因不明。生存者なし。焼失でも水害でもない。まるで、最初から存在しなかったかのように、村だけが消えていたという。
地図上の位置は、志音の家が建つ場所と、完全に重なっていた。
さらに読み進めると、こう記されていた。
『村には、決して灯りを点けてはならぬ部屋があった。それは黄泉と現世を繋ぐ間であり、灯りは境界を破壊する』
その夜、志音は決意する。確かめなければならない。この家の正体を、この呪いの意味を。
深夜二時。家族が眠りについた頃、志音は廊下に立っていた。使っていない部屋の天井を見上げ、スイッチに手を伸ばす。指先は冷たく、震えが止まらない。
「点けたら……終わる……」
その時、背後から声がした。
「点けちゃ、だめ」
振り返ると、母が立っていた。顔は青白く、目には涙が浮かんでいる。
「あなたが、最後だから」
母は、すべてを語り始めた。灯りを点ける者は死ぬのではない。“向こう側”に連れて行かれ、境界を維持する楔になるのだと。代々、一人娘がその役目を負ってきたこと。
暗い空間から、無数の影が溢れ出す。女、子供、老人――消えた村の住人たち。
「志音、お願い」
母は微笑んだ。その表情は、解放された者のそれだった。
志音は、すべてを理解した。逃げ場は最初から存在しなかったのだ。
ゆっくりと、スイッチを押す。
――カチリ。
白い光が世界を満たし、志音の意識は裏返った。
気がつくと、彼女は見知らぬ村に立っていた。灯りの点いた家々。だが、人の気配はない。
背後で、囁き声がする。
「これで、また静かになる」
現実世界では、その家から、志音の存在だけが消えた。
翌朝、母は何事もなかったように朝食を作る。使っていない部屋の電気は、再び、二度と点けられることはない。
――だが、夜になると、廊下の奥から微かに聞こえる。
若い女の声が。
「……次は……だれ……?」

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