母が毎晩同じことを聞く村で起きた恐怖の真実
事故後に始まる母の囁きと猫の置物の怪異
私の名前は結衣(ユイ)。山々に囲まれ、季節の移ろいがはっきりと感じられる日本の片田舎で生まれ育った高校二年生だ。春になれば霧が低く田畑を覆い、夏は蝉の声が耳を刺すほど響き、秋には枯葉が家の縁側に積もり、冬には雪が音を吸い込む。この村では、時間の流れが都会よりもずっと遅く、記憶と現在の境界が曖昧になりやすい。
私は古い木造の一軒家で、父と母と三人で暮らしていた。その家は、後になって思えば、まるで家は存在しなかった―配達員ユイが辿り着いた消えた住所の恐怖に描かれるように、記憶の中だけにある場所だったのかもしれない。父は無口で、朝早くから夜遅くまで働く人だった。母は優しく、けれどどこか影を含んだ人で、笑うときも声を上げることはなかった。家の玄関には、白い猫の置物が置かれていた。招き猫に似ているが、右手を上げたその表情はどこか寂しげで、村の骨董市で母が買ってきたものだった。
母は毎朝、必ずその猫の置物を拭いていた。布で丁寧に、まるで生き物に触れるように。
「結衣、猫の置物はいつもきれいにしておくのよ」
それが母の口癖だった。私は意味を深く考えたことはなかった。ただ、母がそれを言うとき、必ず私の目を見ていたことだけが、なぜか心に残っていた。
事故が起きたのは、春の校外学習の日だった。クラス全員で観光地へ向かうため、大型バスに乗り込んだ。私は窓際の席で、友人と写真を撮ったり、お菓子を分け合ったりしていた。山道に入ると、道は細くなり、その不安な感覚は、まるで東海道幽霊街に戻ります―薬売りの母が辿る呪われた街道に描かれるような、引き返せない運命の道を進んでいるかのようだった。ガードレールの向こうには深い谷が広がっていた。
突然、バスが大きく揺れた。誰かが悲鳴を上げ、次の瞬間、世界が裏返った。金属が軋む音、ガラスが砕ける音、体が宙に浮く感覚。私は何かに強く抱き寄せられた気がした。
「結衣……」
その声が、母のものだったかどうか、今でもはっきりしない。
目を覚ましたとき、私は病院の白い天井を見ていた。消毒液の匂いが鼻を刺し、機械の電子音が規則正しく響いていた。体中が痛み、特に頭の奥が鈍く重かった。医師は淡々と説明した。
「命に別状はありません。ただし、しばらくは自宅療養が必要です」
私は生きていた。けれど、その事実だけが、なぜか現実感を伴っていなかった。
退院後、私は学校に行けなかった。体の痛みよりも、心が動かなかったのだ。父は仕事を調整し、近所の人たちも交代で様子を見に来てくれた。誰もが優しかったが、私はその優しさを受け取る余裕を失っていた。
異変は、家で過ごすようになって数日後から始まった。昼下がり、台所でお粥を食べていると、背後から聞き慣れた声がした。
「結衣、猫の置物はいつもきれい?」
振り向くと、そこに母が立っていた。事故の前と変わらない姿で、割烹着を着て、穏やかな表情を浮かべていた。私は疑うことなく答えた。
「うん、きれいだよ」
「そう。なら大丈夫」
夕方、布団で横になっていると、また同じ声が聞こえた。
「結衣、猫の置物はいつもきれい?」
私は少し不思議に思いながらも、同じように答えた。
夜、電気を消した後、闇の中でもその声は現れた。母は何度も、同じことしか言わない。私は違和感を覚えつつも、その声に安心して眠りについた。
日が経つにつれ、母の言葉は私の生活の中心になっていった。私が何を考えても、何を感じても、最終的にはその言葉に戻ってくる。
「猫の置物はいつもきれい?」
「そう。なら大丈夫」
父に母のことを話そうとすると、なぜか舌が重くなった。父は疲れた顔で私を見て、何も聞かずに頭を撫でた。
「無理しなくていい。今は休もう」
ある夜、私は事故の夢を見た。横転するバスの中で、誰かが私を抱きしめていた。視界の端で、赤い血が流れているのが見えた。
目を覚ますと、母が枕元に立っていた。輪郭が少しぼやけて見えた。
「猫の置物はいつもきれい?」
私は初めて、恐怖を感じた。
翌日、玄関の猫の置物を見ると、細かなひびが入っていた。私は慌てて布で拭いた。すると、ひびは消え、胸の奥の痛みも少し和らいだ。
それから私は、置物を拭くことに執着するようになった。母の声が聞こえるたび、何度も、何度も。
ある日、村の掲示板で事故の記事を見た。死亡者一覧の中に、母の名前があった。私はその場で立ち尽くした。
その夜、母は初めて違う言葉を口にした。
「結衣、あなたはまだ生きている」
そして、あの言葉の本当の意味を教えてくれた。
「大切な人がいなくなっても、その人は心の中で生き続けるの」
私は泣き崩れた。母は事故で亡くなっていた。私を守るために。
翌朝、母の声は聞こえなかった。猫の置物だけが、静かにそこにあった。私はそれを拭き、深く息を吸った。
私は少しずつ、現実を生き始めている。母はもういない。でも、心の中で、確かに生きている。
夜、夢の中で、母は微笑んだ。
「猫の置物はいつもきれい?」
「うん」
「そう。なら大丈夫」
それは、恐怖ではなく、私を前に進ませる言葉だった。

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