東海道幽霊街に戻ります―薬売りの母が辿る呪われた街道

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東海道幽霊街に戻ります

東海道で始まる悪夢と白装束の女が語る真実

三重と静岡の境に近い、古い町外れに、ひっそりとした生活を送る一人の主婦がいた。名はミサエ。

彼女は特別な霊能力を持つ巫女でも、怪談を集めて回る旅人でもない。どこにでもいる、ごく普通の家庭を支える母であり、毎日同じ時間に起き、朝餉を整え、夫を見送り、そして小さな木製の箱型の屋台を押して町へ出る薬売りだった。

屋台の中には、胃薬、解熱剤、貼り薬、古くから伝わる漢方の粉末が丁寧に並べられている。それらは決して高価ではないが、山間の村や街道沿いの集落では重宝され、人々の生活に密着した存在だった。

「いってきます」

ミサエは毎朝、決まった調子でそう言う。それは習慣であり、祈りのような言葉でもあった。

「気をつけてな。最近、道の奥は霧が深いらしいぞ」

夫のシゲルは、湯飲みを机に置きながら言う。彼は寡黙だが、ミサエの身を案じる優しさを言葉の端々に滲ませていた。

「大丈夫よ。昼過ぎには戻るわ」

そう答えながらも、ミサエの胸の奥には、説明のつかないざわめきがあった。

その日、彼女はいつもより遠くへ足を伸ばした。理由は些細なものだった。最近、奥の村で薬が足りないという噂を耳にしたからだ。ただそれだけだった。

しかし、道は次第に様子を変えていく。舗装された道はひび割れ、やがて土に戻り、両脇には人の手が入っていない雑草が生い茂る。空気は冷え、音が吸い取られたように静まり返り、青木ヶ原樹海で客を待つ呪われた移動カフェの怪談記録に描かれるような、人を拒みながらも何かが待ち続ける場所特有の気配が漂っていた。

そして、ミサエの視界に現れたのは、一本の古びた木の標識だった。

【東海道】

黒く掠れた文字は、長い年月を経てなお消えず、まるで過去の怨念そのものが刻み込まれているかのようだった。

「……東海道?」

思わず声が漏れる。

東海道。かつて五十三次として栄え、多くの旅人、商人、武士、芸人、そして名もなき者たちが行き交った街道。その裏で、病、飢え、盗賊、裏切りによって命を落とした者も数え切れず、姫路城の井戸で幽霊のお菊を見たという怪談のように、語られぬまま消えていった魂も少なくなかった。

年寄りたちはよく語っていた。

――夜の東海道には、未練が戻ってくる。

――振り返るな。呼ばれても、応えるな。

ミサエは一瞬、引き返そうとした。しかし、標識の先に見えた小さな集落と、かすかな人影が、その決意を鈍らせた。

「……少しだけ。日が暮れる前に戻れば……」

そう自分に言い聞かせ、彼女は東海道へと足を踏み入れた。

道に入った途端、周囲の気配が変わった。鳥の声が消え、風は止み、屋台の軋む音だけがやけに大きく響く。

「お薬、いりませんか……」

声を出すと、空気が歪んだように感じられた。

数軒の家で薬は売れた。しかし住民たちは皆、ミサエの顔を見ると視線を逸らし、早口で用件を済ませようとする。

「この道、よく来られましたね……」

ある老婆が、薬を受け取りながら震える声で言った。

「夜になる前に、必ず帰りなさい。東海道は……戻ってくるから」

「戻ってくる、とは?」

問いかける間もなく、戸は固く閉ざされた。

その夜、ミサエは夢を見た。

自分は再び、あの道に立っている。夕暮れとも夜ともつかない空の下、東海道は無限に続いていた。

霧の中から、白い影が滲み出る。

白い着物を纏い、長い黒髪で顔を覆った女。

「……帰れ……」

女の声は、耳ではなく、胸の奥に直接響いた。

「東海道へ……戻れ……」

ミサエは叫ぼうとするが、声が出ない。足も動かない。女はゆっくり、確実に近づいてくる。

髪の隙間から覗いた片目は、憎しみとも哀しみともつかない光を宿していた。

そこで、ミサエは目を覚ました。

それから毎晩、同じ夢が続いた。

昼は何事もなかったように薬を売り、夜は東海道で女に追われる。夢の中での距離は日ごとに縮まり、女の存在は現実にも影を落とし始めた。

「……あなたは、誰なの?」

五日目の夢の中で、ミサエは初めて問いかけた。

女はゆっくりと口を開いた。

「私は……東海道幽霊……」

その言葉と同時に、地面が崩れ、闇がすべてを飲み込んだ。

現実では、ミサエは高熱にうなされ、食事も喉を通らなくなっていた。

「もう放っておけない」

シゲルは決意する。

「あの道へ行こう。君が見ているものが何であれ、確かめなければならない」

夕暮れ時、二人は東海道へ向かった。霧は以前よりも濃く、道は異界の入り口のように歪んで見える。

ミサエの前にだけ、女は現れた。

「……来てくれたのね」

「あなたの目的は、何?」

女は静かに語り始めた。

かつて、自分も薬を売り歩く女だったこと。この道で人に騙され、奪われ、命を落とし、誰にも弔われなかったこと。

「私は、忘れられた。だから……覚えていてほしかった」

「覚える……?」

「東海道で生き、死んだ者がいたことを。あなたの声で、運んでほしかった」

その瞬間、ミサエは悟った。これは呪いではなく、継承なのだと。

霧が晴れ、女の姿は消えた。

それ以来、夢は見なくなった。だが、ミサエは今日も屋台を押す。

行き先は、決まっている。

東海道。

「お薬、いりませんか……」

その声には、かつての女の想いが重なっている。

――戻ってくるのは、道ではない。

忘れられた記憶が、人を通して歩き続けるのだ。

東海道幽霊は、今も静かに、ミサエの背後で歩いている。

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