姫路城の井戸で幽霊のお菊を見た

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姫路城の井戸で幽霊のお菊を見た

夜の姫路城で見た幽霊お菊と狂気に追い込まれる取材記録

 私は静(しずか)。東京の小さな出版社で働く、ごく普通の会社員だ。編集部の外回りとして、私は取材やイベントの取材記事を書くことが多い。あの日、私の運命が大きく歪み始めたのは、兵庫県にある姫路城――白鷺城と呼ばれるその美しい城を訪れた夜だった。

 「姫路城で夜間イベントがあるらしいよ。歴史と観光をテーマにした特集記事、ちょうどいいんじゃない?」
 そう言ったのは、同じ部署の麻衣だった。明るくて社交的、怖い話が大好きなくせに、実際に何か起きると誰よりも先に逃げるタイプだ。

 同行することになったのは、私を含めて四人。麻衣、理沙、恵美、そして私、静。全員女性で、同じ会社の同僚だ。取材は二日間の予定で、初日は昼から城内と周辺を取材し、夜はライトアップされた姫路城と関連イベントを取材することになっていた。

 「ねえ、知ってる? 姫路城って、めちゃくちゃ幽霊の噂多いんだよ」
 新幹線の中で、麻衣がスマホを見ながら言った。私は以前読んだ兄の家に現れた赤マントの幽霊と少女の恐怖体験を思い出し、ただの噂話とは思えず、胸の奥がざわついた。
 「はいはい、どうせまた怪談サイトでしょ?」と理沙が笑う。理沙は現実主義者で、霊だの呪いだのは一切信じない。
 「でも有名じゃない。お菊の井戸」
 その言葉に、私は一瞬だけ胸の奥がざわついた。

 お菊――姫路城に伝わる幽霊譚。井戸に投げ込まれ、夜な夜な『一枚、二枚……』と皿を数える女の亡霊。

 「怖がりすぎだって。観光用の作り話でしょ」
 恵美が肩をすくめる。彼女は冷静で、いつも皆のまとめ役だった。

 その時の私は、ただ曖昧に笑うことしかできなかった。なぜか、お菊という名前が、昔から知っている誰かのように、耳の奥に残ったからだ。

 姫路城に到着したのは午後三時頃だった。白く美しい天守は、青空の下で静かにそびえ立っていた。昼間の姫路城は観光客で賑わい、恐怖の気配など微塵もない。

 取材は順調に進んだ。城内の展示、修復の歴史、地域イベントの準備風景。私たちはメモを取り、写真を撮り、笑いながら仕事をこなしていた。

 問題が起きたのは、夜だった。

 夜間特別公開が始まり、城内は昼とは違う顔を見せていた。ライトアップされた白壁は美しいが、影は深く、どこか息苦しい。

 「やっぱ夜は雰囲気あるねえ」
 麻衣が楽しそうに言う。
 「幽霊出そうって意味?」
 「そうそう。お菊とかさ」

 皆が笑う中、私だけが足を止めた。

 井戸があった。

 案内板には『お菊井戸』と書かれている。昼間にも見たはずなのに、夜になると全く違って見えた。井戸の底は闇に沈み、光を吸い込むようだった。

 「静、どうしたの?」
 恵美が声をかける。
 「……なんでもない」

 その時だった。

 井戸の中から、微かに水音がした。

 ちゃぷ……ちゃぷ……。

 「聞こえた?」
 私が言うと、三人は顔を見合わせた。
 「え? なにが?」

 次の瞬間、井戸の闇が、ゆっくりと動いた。

 白い手が、縁にかかった。

 息が止まった。

 濡れた黒髪、青白い顔、虚ろな目。白い着物をまとった女が、井戸の中から這い上がってくる。

 「……一枚……」

 声が、直接頭の中に響いた。

 「に……まい……」

 「やめて……」私は震えながら呟いた。

 「静?」
 麻衣の声が遠く聞こえる。

 女――お菊は、私だけを見ていた。

 その夜、私は一睡もできなかった。

 翌朝、異変は現実となる。

 麻衣が、突然叫び声を上げたのだ。
 「数えてる……誰かが、ずっと……」

 理沙は階段で足を滑らせ、怪我をした。
 恵美はカメラのデータが全て消えたと青ざめた。

 そして、皆が私を見る。

 「静、あんた何かした?」
 「冗談でしょ?」

 私は説明しようとした。井戸で見たものを。お菊の幽霊を。

 だが、誰も信じなかった。

 「疲れて幻覚でも見たんでしょ」
 「怖い話を真に受けすぎ」

 その日から、夜ごとに怪異は激しさを増していく。

 皿を数える声。濡れた足音。鏡に映る女の影。

 被害に遭うのは、必ず三人だった。

 私は気づいてしまった。

 ――お菊は、私に何かを求めている。

 「どうして、私なの……」

 井戸の前で、私は再び彼女と向き合う。

 「九枚……足りない……」

 その言葉の意味を、私はまだ理解していなかった。

 そして物語は、誰も予想しない結末へと進んでいく。

 真実は、私自身の中にあったのだから。

 ――この城で、最初から“数えられていた”のは、誰だったのか。

 闇の中で、井戸は今も静かに口を開けている。

 その夜、宿泊先の旅館で、私は一人だけ眠れずにいた。畳の上に敷かれた布団の中で、天井の木目を見つめながら、井戸から這い上がってきた女の姿を何度も思い出していた。あれは夢ではない。幻覚でもない。そう確信できるほど、生々しい視線と湿った空気が、今も肌に残っていた。

 「一枚……二枚……」

 数える声が、壁の向こうから聞こえた気がした。私は飛び起き、部屋の障子を見つめる。しかし、そこには誰もいない。ただ、夜の姫路城から吹き下ろす風が、障子をわずかに揺らしているだけだった。

 翌日、麻衣の様子は明らかにおかしくなっていた。取材中も落ち着きがなく、何度も後ろを振り返る。
 「ねえ……昨日の夜、誰か部屋に来なかった?」
 「え?」
 「濡れた足で、歩く音がして……皿を数える声が……」

 理沙が苛立ったように言った。
 「またその話? 静が言ってた幽霊の影響じゃないの」

 その瞬間、全員の視線が私に集まった。

 「違う……私は、事実を言っただけ」

 だが、その言葉は誰にも届かなかった。

 昼の姫路城は、相変わらず美しく、観光客で賑わっている。しかし、私の目には、白壁のあちこちに黒い染みのようなものが見えた。それは影ではない。人の形をして、こちらを見ている。

 恵美が突然、カメラを落とした。
 「……写ってる」
 「何が?」
 「白い女が……全部の写真に……」

 確認すると、確かに写っていた。井戸の前、廊下、石段――必ず、背景の隅に、ぼやけた着物の女が立っている。

 「合成でしょ」
 理沙はそう言ったが、声は震えていた。

 その日の夜、理沙が高熱を出した。うわ言のように、何度も数を数えている。

 「八枚……九枚……足りない……」

 私は確信した。お菊は、三人を通して、私に何かを伝えようとしている。

  私は一人で資料を調べ始めた。姫路城、お菊井戸、古文書、地元の言い伝え。かつて読んだ私の村は鉄鼠に脅かされている|山奥の村を覆う鼠僧の怨念のように、そこには観光向けには決して語られない、もう一つの忌まわしい話が記されていた。

 ――皿を隠したのは、主君だけではない。

 お菊を井戸へ追い込んだのは、彼女を裏切った“女”だった。

 その女は、己の罪から逃れるため、記録から名前を消された。

 私は、手が震えるのを止められなかった。

 「……私?」

 その夜、再び井戸の前に立った。月明かりの下、水面が揺れる。

 「一枚……二枚……」

 お菊が現れた。

 「あなたは……私を見ている」

 私は声を絞り出す。
 「どうして、私に……」

 お菊は、ゆっくりと指を伸ばし、私の胸に触れた。

 その瞬間、記憶が流れ込んできた。

 ――江戸時代。
 ――同じ顔の女。
 ――皿を隠し、罪をなすりつけ、笑っていた私。

 「九枚目は……あなた」

 気づいた時、私は井戸の縁に立っていた。背後では、麻衣、理沙、恵美が倒れている。

 誰が助けを呼んだのか、覚えていない。

 数日後、私は病院の白い天井を見つめていた。

 医師は言った。
 「強いストレスによる解離性障害でしょう」

 同僚たちは、私を遠巻きに見ている。

 退院の日、私は一人で姫路城を振り返った。

 井戸の底から、声がした。

 「……これで、九枚」

 白鷺城は、今日も美しく佇んでいる。

 そして私は知っている。

 本当に狂っているのが誰なのかを。

 この城では、今も“数え直し”が続いていることを。

 次に井戸を覗くのは――あなたかもしれない。

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