兄の家に現れた赤マントの幽霊と少女の恐怖体験
深夜のトイレに潜む赤マントの怪談と呪われた家
弥生(やよい)は十七歳の高校二年生だった。長い黒髪は腰まで伸び、整った顔立ちと大きな瞳のせいで、周囲からは「綺麗」「可愛い」と言われることが多かったが、本人は人前に出ることを好まない静かな性格だった。彼女は怪談や心霊話が苦手で、学校の七不思議の話題になると、いつも話の輪からそっと離れていた。
そんな弥生の平穏な日常は、冬休みの始まりとともに、静かに、しかし確実に崩れ始めた。
ある朝、弥生は両親に呼ばれ、居間で正座をするように言われた。父の表情は硬く、母の目は赤く腫れていた。
「弥生……落ち着いて聞いてほしい」
父は低い声で切り出した。
「お兄さんの家に住んでいた……お義姉さんが亡くなった」
その言葉を聞いた瞬間、弥生の頭は真っ白になった。兄は数年前、交通事故で突然この世を去っている。残された義姉は、兄の実家近くの山奥の村で一人暮らしを続けていた。
「……原因は?」
「分からない。夜中、家の中で倒れているのを近所の人が見つけたそうだ」
医者は急性心不全と診断したが、義姉の体には不自然な痣が残っていたという噂もあった。
数日後、弥生は両親、親戚数名とともに、義姉の家へ向かうことになった。葬儀や後片付けのため、しばらくその家に泊まる必要があったのだ。
車で山道を進むにつれ、周囲の景色は次第に寂れ、民家の数も減っていった。スマートフォンの電波はいつの間にか圏外になり、ラジオも雑音しか拾わない。弥生は、かつて山奥の村が得体の知れない怨念に支配されていたという私の村は鉄鼠に脅かされている|山奥の村を覆う鼠僧の怨念という話を思い出し、言いようのない不安に襲われた。
「……ねえ、お母さん」
「なに?」
「お義姉さん、ここで一人で暮らして……怖くなかったのかな」
母は一瞬、言葉に詰まり、視線を窓の外へ向けた。
「……村の人たちは、親切だったって聞いてるわ」
しかし、その声はどこか震えていた。
やがて車は、村の外れに建つ古い日本家屋の前で止まった。木造二階建てのその家は、周囲よりも少し低い場所にあり、背後には暗い杉林が広がっている。
玄関に立った瞬間、弥生は言いようのない違和感を覚えた。空気が重く、息が詰まるような感覚。
「……ここ」
「どうした?」
「ううん、なんでもない」
家の中は驚くほど静かだった。畳の匂い、古い木の軋む音、そしてどこからともなく漂う、湿ったような冷気。
居間には仏壇が置かれ、義姉の遺影が飾られていた。微笑むその顔を見た瞬間、弥生は思わず目を逸らした。写真の目が、こちらを見つめ返してくるような錯覚を覚えたからだ。
その夜、親戚たちは各部屋に分かれて休むことになった。弥生は母と同じ部屋で布団に入ったが、なかなか眠れなかった。
家のどこかで、微かに水の流れる音が聞こえる。弥生は以前、深夜に人ならざる存在と遭遇したという実は私の客は幽霊だった―深夜のラーメン屋と二口女の呪いという怪談を思い出し、胸の奥がひやりと冷えた。
――チョロ……チョロ……。
「……誰か、起きてるの?」
母はすでに寝息を立てている。弥生は天井を見つめながら、胸の鼓動が速くなるのを感じていた。
深夜二時を過ぎた頃、強烈な尿意に耐えきれなくなり、弥生はそっと布団を抜け出した。
「……すぐ戻ろう」
廊下は暗く、足元の板がギシギシと音を立てる。その音が、まるで誰かを呼び寄せているように感じられた。
トイレは廊下の突き当たりにあった。引き戸に手をかけた瞬間、背筋に冷たいものが走る。
「……気のせい」
そう自分に言い聞かせ、戸を開けた。
その瞬間、弥生の視界に、あり得ないものが映り込んだ。
個室の奥、薄暗い空間に、真っ赤な布が揺れている。
「……え?」
それは、まるで誰かがマントを羽織って立っているかのようだった。
次の瞬間、布の下から、異様に細い首と、青白い顔が現れた。
目は落ち窪み、口元は不自然に裂け、歯が覗いている。
「……ひっ……」
声にならない悲鳴が喉に詰まった。瞬きをした一瞬の間に、その姿は消えていた。
弥生は我を忘れて部屋へ駆け戻り、布団に潜り込んだ。心臓が破裂しそうなほど鳴り響いている。
翌朝、弥生は昨夜の出来事を誰にも話せなかった。ただの見間違いだと思いたかった。
しかし、それから奇妙なことが続いた。
誰もいない廊下で足音がする。
洗面所の鏡に、一瞬だけ赤い影が映る。
夜中、決まってトイレの方から水音が聞こえてくる。
「……弥生、大丈夫?」
従姉の美咲が心配そうに声をかけてきた。
「……うん」
だが、弥生の不安は日増しに膨らんでいった。
三日目の夜、弥生はとうとう一人でトイレへ行くことを禁じられた。
「何かあったら大変だから」
叔母の言葉で、美咲が付き添うことになった。
二人で廊下を歩く間も、空気は異様に冷たかった。
トイレの前に立った瞬間、弥生ははっきりと感じた。――いる。
引き戸が、勝手にゆっくりと開いた。
天井から、赤いマントが垂れ下がるように現れる。
「……赤マント……」
学校の怪談で聞いた、あの存在。
男の幽霊は、ぎこちなく首を傾け、低く湿った声で囁いた。
「赤いマントが……欲しいか……」
「青いマントが……欲しいか……」
美咲は恐怖のあまり、その場に座り込んだ。
弥生は震える足で一歩前に出た。
「……どちらも、いりません」
沈黙。
次の瞬間、赤マントの口元が、ゆっくりと歪んだ。
「……ならば……第三の選択だ……」
床が歪み、空間が裂けるような感覚。弥生の意識は闇に沈んだ。
目を覚ました時、家の中は静まり返っていた。
家族も、親戚も、誰一人いない。
仏壇の前には、新しい遺影が並んでいた。
そこに写っていたのは、弥生自身だった。
背後で、赤いマントが揺れる。
「……ここが……お前の居場所だ……」
それ以来、村では噂が絶えない。
夜中に兄の家のトイレへ入ると、赤い影が現れるという。
赤いマントか、青いマントか。
あるいは、第三の選択か――。
選んだ者の末路を、知る者はいない。
兄の家には、今も赤マントの幽霊がいる。

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