実は私の客は幽霊だった―深夜のラーメン屋と二口女の呪い

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実は私の客は幽霊だった 二口女

深夜の屋台に現れた二口女と忘れ去られた飢えの記憶

夜の街は、昼間とはまるで別の顔を見せる。
人通りが消え、ネオンの光だけが濡れたアスファルトに反射し、静寂の中にかすかな生活の気配だけが残る。
この時間帯になると、街そのものが息を潜め、過去の記憶を吐き出す準備をしているように、望(ノゾミ)はいつも感じていた。

ノゾミは地方都市の外れにある小さなラーメン屋の女主人だった。
再開発から半ば見捨てられた古い路地の角、昼間は誰も気にも留めない場所に、ぽつんと灯る赤い提灯。
そこが彼女と三春(ミハル)の店だった。

「この静けさ、嫌いじゃないでしょ?」
そう言ったのはミハルだった。
元は建築設計事務所で働いていたが、ある事件をきっかけに退職し、今はノゾミと共にこの店を切り盛りしている。
「うん……でも、時々ここ、誰かに見られてる気がする」
ノゾミがそう答えると、ミハルは笑った。
「考えすぎ。古い場所は音が反響するだけ」

だがノゾミは知っていた。
この土地には、説明できない“気配”があることを。かつて山奥の村で語り継がれてきた怨念の伝承――私の村は鉄鼠に脅かされている|山奥の村を覆う鼠僧の怨念――と、どこか似た重さを、その空気は孕んでいた。

父親は料理人だった。
戦後の混乱期、食べ物を求める人々に囲まれながら働き続け、最後は過労と栄養失調で倒れた。
幼い頃、父はよく言っていた。
「食べ物には、人の想いが残る」
その言葉が、今でもノゾミの胸に刺さっている。

その夜も、いつも通りだった。
時計は午前零時を回り、暖簾を下ろす時間。
「そろそろ閉めよう」
ミハルが言い、ノゾミも鍋の火を落とそうとした。

その時だった。
カラリ、と乾いた音が路地に響いた。

暖簾が、ひとりでに揺れた。

「……いらっしゃいませ?」
ノゾミの声は、わずかに震えていた。

そこに立っていたのは、一人の女だった。
異様なほど白い肌、濡れたように重い黒髪。
季節外れの薄い着物を身にまとい、夜気に溶け込むように立っている。

「まだ……食べられる?」
その声はかすれ、遠くから聞こえるようだった。

「はい、どうぞ」
ノゾミは反射的に答えてしまった。
ミハルは女を一瞥すると、いつもの調子で言った。
「ラーメン一杯でいいですか?」

女は小さくうなずき、カウンター席に腰を下ろした。
背中が、異様なほど細い。
まるで中身が空洞のようだった。

ラーメンを作りながら、ノゾミは背中に冷たい視線を感じていた。
スープの湯気が、女の輪郭を歪める。

「……ノゾミ、大丈夫?」
ミハルが小声で聞く。
「うん……ちょっと、寒気が」

ラーメンを差し出した瞬間、ノゾミは見てしまった。
女の前の口が、ありえないほど大きく裂けている。
歯が多すぎる。
人間の数ではない。

そして——
女が俯いた、その時。

首の後ろ、髪の隙間から、もう一つの口が、にたりと笑った。

二口女(ふたくちおんな)。
昔話で聞いた、飢えの妖怪。
食べても食べても満たされず、背中の口で人の命を喰らう存在。

「……っ」
声が出なかった。
心臓が凍りつく。

だがミハルは、何も気づいていない。
普通に会話し、会計の準備をしている。

「美味しい……」
女は前の口で麺をすすった。
だがノゾミには見える。
背中の口が別の意思を持つように動き、スープの匂いを貪る姿が。

その瞬間、ノゾミの耳に、別の音が混じった。
泣き声。
怒号。
助けを求める声。

視界が歪み、店の風景が変わる。
ここは、過去。
戦後の闇市。
同じ場所で、飢えた人々が群がっている。

一人の女が、鍋の前に立っている。
痩せ細り、目だけが異様に大きい。
「食べなさい……」
女はそう言って、差し出す。

だが鍋の中身は——

「ノゾミ!」
ミハルの声で、現実に引き戻された。

女はすでに食べ終え、静かに立ち上がっていた。
「ごちそうさま」

次の瞬間、女の姿は、煙のように消えた。

カウンターの椅子だけが、わずかに揺れている。

「……今の、何?」
ミハルの顔色が変わっていた。
「今、見えた?」
ノゾミが聞く。
「いや……急に寒くなっただけ」

その夜、ノゾミは眠れなかった。
背中の口の幻影が、脳裏に焼き付いて離れない。

翌日、ミハルは資料を集め始めた。

この土地の過去。

再開発前の記録。

失われた村、記録から消えた人々――かつて青木ヶ原樹海に消えた考古学者たちの謎と死の真相として語られた出来事と同じように、この場所にも“戻らなかった者たち”の影が残されていた。

「……ここ、簡易住宅があった」
ミハルは資料を見つめながら言った。
「戦後、行方不明者が多発してる」

ノゾミは、あの女の背中の口を思い出した。
満たされない飢え。
忘れ去られる恐怖。

数日後、再開発説明会が開かれた。
この一帯は完全に取り壊される。
店も、例外ではない。

その夜、再び暖簾が揺れた。
女が、立っていた。
今度は、背中の口を大きく開いて。

「……ここは、私たちの場所」
二つの口が、同時に囁く。

ノゾミは一歩前に出た。
「あなたは……この土地そのものなの?」
「忘れられた、飢え」

その瞬間、地面が揺れた。
解体工事の衝撃。
女の姿が、崩れ、光に溶ける。

「ごめんね」
ノゾミは呟いた。

翌朝、店は更地になっていた。
ミハルとノゾミは、新しい場所へ移る。

それ以来、二口女は現れない。
だがノゾミは知っている。
あの客は、幽霊だったのか。
それとも、街に残された飢えそのものだったのか。

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