家は存在しなかった―配達員ユイが辿り着いた消えた住所の恐怖
実在しない家に導かれた女性配達員の戦慄体験談
夕暮れの商店街は、まるで生き物のようにゆっくりと呼吸しながら夜へ沈み込んでいった。昼間の喧騒が嘘のように消え、シャッターが閉まる重い金属音が規則正しく響く。遠くでは最後のバスがエンジン音を残して去り、揚げ物の油が冷え切った独特の匂いが、空気に薄く漂っていた。それらすべてが混ざり合い、この街にしか存在しない時間の層を形作っている。
その一角に、小さな弁当屋「結び屋」はあった。決して目立つ店ではないが、長年この街で暮らす人々にとっては、なくてはならない存在だった。木製の引き戸は長年の使用で擦り切れ、看板の文字も風雨に晒されてところどころ薄れている。しかし、店内から漏れる橙色の灯りは柔らかく、夜の冷えた空気の中で、確かな温もりを放っていた。
店の奥で、ユイは黙々と仕込みを終えていた。煮物の鍋から立ち上る湯気、包丁がまな板に当たる乾いた音。その一つ一つが、彼女の日常だった。
「……今日も、終わりかな」
そう呟いた声は、換気扇の低い音にかき消される。ユイは二十九歳。幼い頃に両親を亡くし、親戚の助けを借りながら、この小さな店を守ってきた。昼は調理と接客、夜は配達員として原付に乗る。体力的には厳しい生活だが、それでも彼女はこの仕事を嫌いではなかった。料理を通して誰かの一日を支えている、その実感があったからだ。
店の前には、配達用の原付バイクが一台、街灯の下に静かに停められている。黒く塗られた車体には、雨風に晒された細かな傷が無数に刻まれていた。それらは、ユイがこの街と周辺の村々を走り続けてきた証でもある。エプロンを外し、手を洗った瞬間、スマートフォンが短く震えた。
《新規注文が入りました》
何気なく画面を確認したユイは、思わず眉をひそめる。
《配達先:長野県○○郡△△村 家屋番号:未登録》
「……家屋番号、未登録?」
これまでにも山間部の配達は経験してきたが、ここまで曖昧な住所表示は初めてだった。しかし、画面下には確かに「支払い完了」の文字が表示されている。キャンセルすれば返金処理はされるが、なぜかユイの指は止まらなかった。
「まあ……田舎だし、そういうこともあるか」
自分に言い聞かせるように呟き、受注ボタンを押す。注文内容は、煮物、白米、味噌汁。派手さはないが、どこか懐かしく、心と体を静かに温める料理だった。その組み合わせに、理由の分からない既視感を覚えながらも、ユイは丁寧に容器を包み、保温バッグへと収めていく。
ヘルメットを被り、原付にまたがる。エンジン音がかかると同時に、商店街の空気が背後へと流れていった。街灯の数が減るにつれ、夜の闇は濃くなり、ナビアプリの機械的な音声だけが、ユイを導いていく。
《次の交差点を右です》
山道に入ると、空気は一気に冷たさを増した。舗装された道は次第に荒れ、雑草がアスファルトを割って伸びている。虫の声が重なり合い、不自然なほど静かな世界が広がっていた。やがて、風雨に晒された古い木製の看板が現れる。
『△△村』
その文字を見た瞬間、胸の奥がわずかにざわついた。理由は分からない。ただ、懐かしさと不安が入り混じった感覚だけが残る。
《目的地に到着しました》
「……え?」
原付を止め、ヘルメットを外す。ライトに照らされた先にあったのは、家ではなかった。人の手が長年入っていない畑が、静かに広がっている。絡み合う蔓、背丈ほどに伸びた雑草、風に揺れる枯れ草の音。それ以外、何も存在しない。
「家……ない……」
スマートフォンを確認し、再度周囲を見回すが、瓦屋根も、門も、明かりも見当たらない。胸の奥がじわじわと冷えていく。ユイは注文者の番号に電話をかけた。
《おかけになった番号は、現在使われておりません》
「そんな……」
前払いである以上、悪質な冗談とは考えにくい。それでも、目の前には確かに何もない。風が吹き抜けるたび、畑の奥がざわめき、誰かに見られているような錯覚に襲われる。
「……失礼します」
意味もなく頭を下げ、原付に戻る。バックミラーに映る闇が、いつまでも追いかけてくるように感じられた。
――翌日の夜。
同じ通知音が鳴る。
《新規注文:長野県○○郡△△村 家屋番号:未登録》
背中に冷たい汗が流れる。それでも、ユイは受注してしまう。断れない。理由は分からない。ただ、呼ばれているという感覚だけがあった。
ナビは前日とは異なるルートを示し、舗装のない林道へと導く。木々が頭上で枝を絡ませ、月光はほとんど地面に届かない。こうした深い森にまつわる恐怖譚は、青木ヶ原樹海で客を待つ呪われた移動カフェの怪談記録のような怪異を描いた記録にも共通する。
《目的地に到着しました》
そこは、深い森の入口だった。スマートフォンは圏外を示し、奥から足音が聞こえてくる。
「……遅い」
古い着物を着た女性が、闇の中から姿を現す。
「昔は、ここに家があった」
火事、失われた家、帰れなかった魂。その言葉と共に、ユイの記憶が崩れ落ちていく。幼い日々、炎、母の叫び。
「……思い出した」
次の瞬間、強い光と風。
ユイは、再び店の前に立っていた。朝日が昇り、すべてが夢だったかのように思える。しかし、確かに何かが戻ってきてしまった感覚だけが残る。
失われた家と土地の記憶―専門的視点から
後日、ユイは地域の郷土資料館を訪れ、△△村の過去を調べ始めた。そこには数十年前に起きた大規模な火災と、一家行方不明の記録が残されていた。民俗学や心理学の分野では、強い感情や未練が特定の土地に残留する現象が語られており、こうした「帰れない記憶」を辿る話は、東海道幽霊街に戻ります―薬売りの母が辿る呪われた街道のような街道怪談にも共通して見られる。ユイの体験は、土地に刻まれた記憶と、彼女自身の過去が重なり合った結果だったのかもしれない。
それ以来、あの注文は二度と来なかった。しかし、夜風に混じる焦げた匂いと、どこにも存在しないはずの家の気配だけは、今もユイの背後に、確かに存在している。

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