父の靴が増えていく―消えていく娘の恐怖体験

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父親の靴が日に日に大きくなっていくのを見て恐怖する女性

古書店に残された父と娘の歪んだ記憶

私の名前は直美(ナオミ)。高校を卒業したばかりの、まだ社会というものを何も知らない若い女だった。制服を脱ぎ、学生証を失い、けれど未来の輪郭は何一つ掴めないまま、私は父が営む小さな古書店を手伝う日々を送っていた。

店は東京郊外、古い住宅街の外れにぽつんと建っている。木造二階建ての古書店で、壁一面に背表紙の色あせた本が並び、床には長年積もった紙の粉と埃が薄く広がっていた。紙とインクと時間が混ざり合った、少し苦くて懐かしい匂い。私はその匂いを吸い込むたび、なぜか胸の奥が落ち着くのを感じていた。

「直美、そこの棚も頼む」
帳簿をめくりながら、父はいつも短くそう言った。

「はい、お父さん」
私はそう返事をし、黙々と働いた。朝から夕方まで、棚を拭き、本を並べ、客が来れば頭を下げる。その繰り返し。単調で、けれど確かに存在している時間だった。

夕方になると、店のシャッターを下ろし、私は父と一緒に家へ帰る。まるで誰かが先に帰っている―深夜の家で待つ祖母の影を連想させるように、家は店の裏手にあり、玄関を開けると必ず目に入るものがあった。

父の靴。

黒い革靴が、きちんと揃えられている。それだけなら何もおかしくない。どこの家庭にもある、ごく普通の光景だ。最初のうちは、私はそれを疑いもしなかった。

だが、ある日ふと、使っていない部屋の電気と消えた家系の禁忌を思わせるような、胸の奥がざわついた。

「……あれ?」

玄関で靴を脱ぎながら、私は父の靴を見下ろした。昨日より、ほんのわずかに大きい気がしたのだ。気のせいだと思おうとした。疲れているだけだ、と。

しかし、その違和感は日を追うごとに確信へと変わっていった。

翌日、また翌日。帰宅するたび、父の靴は確実に成長していた。つま先が伸び、横幅が広がり、革の表面には深い皺が刻まれていく。まるで、中で何かが膨らんでいるかのように。

「お父さん……靴、変えた?」
ある日の夕食時、私は恐る恐る聞いた。

父は箸を止め、私をじっと見つめた。その視線には、説明できない重さがあった。

「……」

「ねえ、どうして何も言わないの?」

「食べなさい」

父はそれだけ言い、再び箸を動かした。話題はそこで終わった。

その夜、私は布団の中で目を閉じても眠れなかった。闇の中で、玄関に置かれた巨大な靴の輪郭が、はっきりと脳裏に浮かんでいた。もしや、父の体が大きくなっているのではないか。そんなあり得ない考えが、頭を離れなかった。

翌朝、私は父の背中をじっと見つめた。身長も、体格も、何一つ変わっていない。それなのに、靴だけが異常に大きくなる。現実が、少しずつ歪んでいるような感覚に襲われた。

日が経つにつれ、靴のサイズは常識を超えていった。三十センチを優に超え、もはや人間の足とは思えない大きさになっていた。

「お父さん、お願い……教えて」
私は泣きながら訴えた。

父は俯き、震える声で言った。

「直美……見てはいけないものを見るな」

その言葉は、私の心を深く抉った。

その夜、私は自分の異変に気づいた。手が、小さい。以前より、確実に。服の袖が余り、床が遠く感じる。私は鏡の前に立ち、愕然とした。

世界が、大きくなっている。

私が、縮んでいる。

夢を見るようになった。炎に包まれる本棚、崩れ落ちる天井、煙の中で咳き込む自分。

「直美、逃げて!」

母の叫び声。

目を覚ますと、涙が頬を伝っていた。私は答えを求めるように、夜中の店へ向かった。

月明かりの下、古書店は異様な姿を晒していた。シャッターを開けると、焦げた匂いが鼻を突く。壁は黒く焼け、床には炭化した本が散乱していた。

「……思い出した」

背後から声がした。振り返ると、そこには母が立っていた。透ける体で、穏やかな表情を浮かべて。

「あなたは、もうここにはいられない」

記憶が一気に蘇った。火事。夜の店。母と一緒に本を運び、逃げ遅れ、煙に包まれたあの日。

「私……死んでたんだ」

母は静かに頷いた。

「お父さんは、生きている。でもあなたの姿は、もう見えないの」

靴が大きくなったのではない。私が、世界から削られていったのだ。存在が薄れ、やがて消えるために。

私は玄関に戻り、巨大な靴の影に立った。そこは、私が最後に居られる場所だった。

「さようなら、お父さん」

声は届かない。それでも、私は微笑んだ。

翌朝、父は玄関で立ち尽くしていた。靴が一足、減っていた。なぜか胸が締めつけられ、理由も分からぬまま涙が溢れた。

父は知らない。その靴の横で、娘が静かに消えたことを。

そして今日も、父の靴は静かに並び続けている。

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