私は東北山で幽霊火車にさらわれた。

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私は東北山で幽霊火車にさらわれた。

東北山の禁忌を破った七子が遭遇した火車の怪異

東北山脈に初夏の冷気が残る夜、七子(ななこ)は都会での疲れを忘れるため、友人たちとキャンプをすることにした。
毎日の残業、終わりのない会議、上司からの理不尽な叱責。すべてを置いて自然に逃げ込むことを、七子は何ヶ月も前から夢見ていた。
だが、その夜。七子は後に生涯悔やむ“ある過ち”を犯してしまう。

山に着いたのは夕方だった。橙色の夕陽が山の端を染め、鳥の声が静寂の中で響く。友人たちはテントを張り、焚火の準備をし、ささやかな宴を始めた。

「七子、ビール取って!」「今日は飲むぞー!」
「仕事のことなんて忘れろよ!」

七子は笑った。久しぶりに心から笑えた気がした。山の冷たい空気は心地よく、焚火の匂いさえも懐かしい。

しかし、焚火を囲む中で七子は唐突に、背後から“視線”を感じた。

その奇妙な感覚は、まるで空き家に現れる人魂と白い着物の女の謎に迫る恐怖物語のように、

強烈で、粘つくような、まるで生温い手が背中を這い回るような感覚だった。


(……誰か、見てる?)

気のせい、そう言い聞かせても、その感覚は消えなかった。焚火に照らされた木々の影が揺れ、闇が波打つように蠢く。
七子は胸の奥に湧き上がる不安をごまかすため、深呼吸をした。

やがて夜の帳が降り、周囲は静まり返っていった。友人たちは騒いでいたが、七子の心は落ち着かなかった。

「少し歩いてくるね」

「え……大丈夫? もう真っ暗だよ?」
「大丈夫、すぐ戻るから。」

七子はヘッドライトを点け、ひんやりとした闇の山道へと踏み出した。

◆◇◆

山の中は不思議なほど静かだった。虫の声も、風の音もない。ただ、七子の靴音だけが乾いた地面に響く。
歩くほどに違和感は増していく。木の幹は黒く焦げ、地面は灰のように黒ずんでいる。まるでこの一帯だけが“焼かれた”かのように。

(こんな場所、地図に載ってたかな……?)

その時、七子のライトがとある構造物を照らした。
それは古びた鳥居だった。片方は倒れ、苔と黒い煤がこびりついている。
奥には潰れかけた古い祠がひっそりと佇んでいた。

空気が急に重くなる。
胸を圧迫するような息苦しさ。

(……戻ろうか……?)

そう思った瞬間、なぜか祠の奥から風が吹いた。七子の足は無意識のうちに祠の前へ動いていた。

祠の扉は半壊し、隙間から冷気が流れ出している。七子は震える指で扉を押した。

ギ……ギギ……

中には古い“木札”が置かれていた。墨で大きく書かれている。

“火車(かしゃ)を呼ぶな”

「かしゃ……?」

聞いたことがあった。死者の魂を奪い、棺桶ごと炎の中へと連れ去る妖怪。死体を盗む魔物。
ただの昔話だと思っていた。
だが、今は違う。札は妙に新しく、墨のにおいすら残っている。

(これ……触らないほうが……)

そう思ったが、七子の手は勝手にその札を掴んだ。

瞬間——

ゴゴゴゴゴォォォォォンッ!!

山全体が揺れるような轟音が響き渡った。
冷たい風が狂ったように吹き荒れ、木々がしなる。
黒い灰が空中に舞い上がり、七子は反射的に目を閉じた。

ドォォン……! ガラガラガラ……!!

遠くから巨大な車輪を引きずるような音。
地面を踏み砕く重い足音。

七子の背筋に氷が這い上がる。
ゆっくりと振り返ると——

木々の隙間に“真っ赤な炎”が揺れ動いていた。
炎の中から、焦げた巨大な人影が姿を現した。

背中には……大きな棺桶。
そして棺桶の内側から“ドン……ドン……”と叩く音。

「う、そ……」

怪物は七子を見つけ、赤く爛れた目を見開いた。
口元が裂け、地響きのような声が漏れた。

「……にんげん……また……きたか……」

七子は叫んで走り出した。
木々の影が炎に照らされ、狂ったように揺れる。
だが足音はすぐ後ろに迫る。

「来ないでッ!!」

次の瞬間、七子の足元に赤い炎が巻き付き——
体が宙に浮いた。

「きゃあああああああ!!」

炎と闇が混ざり合う空間へ、七子は引きずり込まれた。

◆◇◆
■異界:炎と灰の世界

目を開けると、そこはまったく別の世界だった。
空は赤黒く、地面は灰と黒い土が混ざり合っている。焦げた木の残骸が無数に並び、常に黒煙が渦巻いている。
遠くでは焼けただれた影のような人々が彷徨っていた。

「ここ……どこなの……?」

足元には無数の足跡があった。しかしその足跡は途中で途切れ、跡形もなく消えているものもある。
まるで“どこかへ連れて行かれた”かのように。

その時——

ゴオォン……

またあの重い音が響いた。火車がゆっくり近づいてくる。
炎が渦巻き、棺桶が揺れ、不気味な呻き声が漏れた。

「ここは……ひのうみ……」
「おまえは……まだ……生きておる……」
「だが……すぐ……こちらへくる……」

七子は涙を流しながら後退した。
だが背後にも無数の黒い影が立っていた。
顔は形を成さず、ただ穴のような目だけが七子を見つめている。

「戻らせて……お願い……!」

七子の叫びは虚しく響くだけだった。
火車は鋭い爪を伸ばし七子の肩を掴もうとした。

七子は振り払って走り出す。
だが地面は熱く、足が痛む。
追いかける影、落ちてくる灰。
耳元で誰かが囁いた。

「逃げても……無駄だ……」
「ここは……死者の山……」
「おまえも……いずれ……」

七子は地面が崩れる感覚を覚えた。次の瞬間——

闇へ落ちていった。
いつまでも、いつまでも落ち続けた。

◆◇◆
■薄れる意識と現実の声

「七子!! 七子ッ!! 聞こえる!?」「早く山伏を呼んで!!」

声が闇の遠くから聞こえる。
七子は必死に目を開けようとした。
しかし視界はぼやけ、体は動かない。

(みんな……私……ここだよ……)

答えようとしても声にならない。

「白目むいてる……何これ……」「七子、やだ……死なないで……!!」

その時、七子の背後に再び火車が現れた。

「にんげん……まだ……ここだ……」

七子は絶望し、涙をこぼした。
火車は大きな爪で彼女の魂に触れようとする。

そして現実では——

山伏が七子の額に御札を貼り付けた。

「戻れッ!! 魂を奪うな!!」

光が七子を包み、空間が裂けた。
火車は耳をつんざく叫びをあげて消えていく。

(助かった……?)

だが次の瞬間、視界は再び闇に覆われた。
七子は引き戻されるように倒れ込んだ。

◆◇◆
■翌朝──七子は?

七子はテントの中に横たわり、目を開けない。
しかし呼吸はある。体は温かい。
ただ、魂だけが戻り切っていないようだった。

山伏は険しい顔で言った。

「魂は……まだ向こうの世界に囚われておる。呼び戻せるかどうか……正直わしにも分からん。」

友人たちは泣きながら七子の手を握った。
その時——

七子の唇がわずかに動いた。

「……あかい……ひが……くる……」

その震えは、まるで体内に巣食う寄生虫と囁く恐怖の声に支配されているかのように、

七子の体が小さく震えた。


生きているのか、まだ異界に引きずられているのか。
誰にも判断できなかった。

ただ、テントの外。
誰も歩くはずのない場所に——
黒く焦げた“巨大な車輪の跡”が残されていた。

七子は本当に戻ってきたのか?
それとも、まだあの火車に魂を引かれ続けているのか?

答えは、まだどこにもなかった。

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