のっぺら坊に取り憑かれた社畜ヤヨイと顔のない幽霊の恐怖物語

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のっぺら坊の幽霊に悩まされる:顔のない幽霊

顔のない幽霊の呪いとヤヨイの崩壊

夜のオフィス街は、いつもより静かだった。
街灯の明かりが濡れたアスファルトを照らし、遠くからは電車の軋む音だけがかすかに聞こえる。
八代やよい、通称ヤヨイは、残業続きの疲れた体を引きずりながら会社の駐車場へと向かっていた。
「はぁ……また終電逃した……タクシー代、もう無理なんだけど……」
小さくため息をつきながら、彼女は暗い駐車場へと歩みを進める。周りには誰もいないはずだった。

だが、その夜。
――ザッ……ザッ……
何かがアスファルトを擦るような足音が背後から追ってきた
ヤヨイは眉をひそめ、振り返ろうとして、しかしなぜかその場に固まってしまった。
(誰かいる……? でも、今日は私が最後のはず……)
心臓が早鐘のように鳴る。

恐る恐る振り返ると、そこにはスーツ姿の男が立っていた。背は高く、髪は乱れ、今にも崩れ落ちそうなほど顔色が悪い。
「……あの、どなたですか?」
声をかけても、男は何も言わない。ただ、こちらをじっと見つめている
――いいや、「見つめられている」と思ったのは、ただの錯覚だったのかもしれない。
なぜなら、次の瞬間。

その男の「顔」が――なかったのだ。
目も鼻も口も、何もない。皮膚だけが滑らかに伸び、白くぼんやりと浮かび上がっている。
「――……ッ!」
ヤヨイは息を呑み、思わず後ずさる。しかし、その男は何も言わず、声すら発さず、ただ一歩、また一歩と近づいてくる。
(顔が……ない……のっぺら坊……? いや、そんなバカな……!)
しかし、悲鳴を上げる余裕すらなく、ヤヨイは必死に車へ駆け込んだ。
鍵を回し、ドアを閉めた瞬間、窓の向こうに「それ」はいた。
無表情……いや、そもそも「表情」という概念すら存在しないその顔のない幽霊が、窓にぴたりと張り付き、じっとこちらを――



翌朝、ヤヨイは出社してもどこか落ち着かなかった。
会社のロビーでは何やら騒がしい会話が交わされている。
「聞いた? 経理の男……昨日の夜、事故で死んだって」
「まじで? ほら、あの地味な人、名前なんだっけ……」
「……たしか、田代……田代誠とか言ったかな」
ヤヨイの背筋がぞくりと震えた。
(田代……? あの人、見覚えない……でも、なんでだろう、昨日の……)
昨日、駐車場で見た「顔のない幽霊」。思い出すたび、喉の奥が冷たくなる。
(まさか、あれが……田代さん……? そんなわけ、あるはずない)

デスクに座っても、パソコンのモニターがぼやけて見える。
「ヤヨイ、大丈夫? 顔色悪いよ?」
同僚のミキが心配そうに覗き込んできた。
「う、うん……ちょっと寝不足で……」
「また残業してたんでしょ? あんた、いつか倒れるよ?」
「はは……気をつける」
軽く笑ってみせたものの、心の中は不安でいっぱいだった。

その日の昼、トイレで手を洗っていたときのことだ。
鏡に映った自分の後ろに「何か」が立っていた。
黒い影……いや、人影。
しかし、その「顔」が、また――なかった。
「……ッ!!!」
振り返ると、そこには誰もいない。
鏡の中にだけ、顔のない何かが立っている。
その無機質な「何もない顔」が、にゅるり、と微かに歪んだように見えた。
ヤヨイは悲鳴を上げ、鏡を叩き割りそうな勢いでその場から逃げ出した。



夜、帰宅したヤヨイは鍵を閉めたあと、すぐにカーテンを閉めた。
(見られている……絶対に、どこかから見られている)
テレビもつけない。電気も最小限。
ベッドに潜り込んでも、耳の奥に不気味な「気配」が纏わりついて離れない。
――すり……すり……
何かが壁を撫でるような音がする。
「やめて……お願いだから……やめて……」
涙声で呟いても、音は続く。
――すり、すり、すり……

彼女は意を決して布団から顔を出した。
部屋の隅、暗闇の中に「それ」はいた。
顔のない幽霊。のっぺら坊。
いや、ただの妖怪などではない。そこには強烈な「怨み」のようなものが渦巻いていた。
(なんで……どうして、私なの……?)
幽霊は、ゆっくりと腕を伸ばし、まるで何かを伝えようとするかのように空中を撫でていた。
しかし、声はない。口がないのだから。
ただ、その仕草に、言葉にならない悲鳴のような感情が滲んでいる――



翌朝、ヤヨイは限界だった。
会社へ向かう足取りは重く、まるで全身に鉛をぶら下げられたかのようだった。
そんなとき、彼女の耳に妙な噂が入る。
「田代さんさ、死ぬ前にずっと言ってたらしいよ……『顔が……顔が消える』って」
「え、それって冗談でしょ? 怖すぎるって……」
「しかもさ、事故じゃなくて――自殺だったって噂もある」
「は? どういうこと?」
「鏡を見て……叫びながら飛び降りたって……」
――ザワリ
世界の色が一瞬にして消えたように感じた。
(鏡……のっぺら坊……まさか、同じものを見た……?)

その瞬間、エレベーターのドアが開いた。
ヤヨイは無意識に足を踏み入れる。
しかし、閉まりかけたドアの隙間から、誰かがこちらを見ている気配がした。
――顔のない誰かが。



取引先に向かう途中、地下駐車場でまた「それ」は現れた。
照明のついていない薄暗い区画に、スーツを着た「顔のない男」が立っている。
距離は遠いのに、その存在感は異様に近く感じられる。
「もう嫌……来ないで……!」
ヤヨイは震える声で叫ぶ。しかし幽霊は止まらない。
むしろ、まるで風景の一部のように、音もなく「近づいて」くる。

(逃げなきゃ……でも足が動かない……!)
心臓が爆発しそうなほど脈打ち、視界が歪む。
やがて――幽霊の「顔のない顔」が、目前に迫ったその瞬間。

――ぱちん。

突然、車のライトが点灯した。
眩しい光が駐車場を照らし出す。
幽霊の姿が、スッ……と霧のように消えた。
「……え?」
ライトの元には警備員が立っていた。
「大丈夫ですか? 顔色悪いですよ」
「あ、あの……今、ここに……!」
「? 誰もいませんでしたよ」
ヤヨイは口を開きかけたが、言葉にならなかった。

(私以外には……見えていない……?)



夜、再び家へ戻ったヤヨイは、玄関で立ち尽くしていた。
「戻りたくない……ここに戻るたび、あいつが……」
しかし、逃げ場はない。
鍵を開けると、冷たい空気が迎えるように吹きつけてきた。
――ただいま。
幻聴のように、誰かの声が聞こえた。
(……田代さん?)
リビングへ進むと、テーブルの上に何かが置いてある。
それは――写真だった。
会社の集合写真。
そして、その中にいるはずの田代の「顔」だけが、白く塗りつぶされたように消えていた。
「ひっ……!」
手が震え、写真が床に落ちる。

そのとき。
――コン、コン、コン……
壁を叩く音。
――コン、コン、コン……
今度は天井。
――コン、コン……
床。
部屋の至るところから「何か」が合図を送るように音を立てている。
まるで、ここに「いる」ことを伝えるかのように。
「やめて……お願い、もうやめてよ……」
涙が頬を伝う。

だが、幽霊は止まらない。
鏡の前に立つと、そこには自分の姿と――自分の背後にぴたりと寄り添う「顔のない男」が映っていた。
――おまえも、こっちへ来い。
声はなかった。しかし、確かにそう言われた気がした。
「嫌……嫌ぁぁぁあああ!!!!」
叫び声と同時に鏡がひび割れる。
そこに映るのはもう「ヤヨイ」だけではない。

――彼女の顔が、ゆっくりと「消え始めていた」。



翌朝、ヤヨイは鏡の前で固まっていた。
顔はある。目も、鼻も、口も。
だが、「自分の顔」が、自分のものではないように感じる。
(私……本当に、ヤヨイ……?)
その瞬間、背後から冷たい気配がまとわりついた。
振り返ると、そこには――

昨日と同じ、「顔のない幽霊」が、まるで家族のように静かに立っていた。
しかし、前日とは違う。
幽霊の「顔のない顔」に、かすかな「輪郭」が浮かび始めている。
それは――「ヤヨイ自身の顔」だった。

――おまえの顔を、返せ。

その言葉が頭の中に響いた瞬間、ヤヨイの中で何かが切れる音がした。
「……やめて……私の顔は……私のものよ……!」
しかし幽霊は止まらない。
その「顔のない顔」は、ゆっくりと、確実に「ヤヨイの顔」に近づいていく。



その後の彼女を知る者は、みな口をそろえてこう言う。
「最近のヤヨイ、なんか……顔、変わったよな」
しかし、誰も本当のことは知らない。
彼女の「顔」は、もう半分は「田代」のものに――そして、もう半分は「のっぺら坊」のものに変わりつつあることを。

街のどこかで、また一人、鏡を見たまま呟く声が聞こえる。
――顔が、ない。

そして今日も、新たな「のっぺら坊」が生まれる――。

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