かすみの呪いに囚われた骨董商ナナコと不気味な風景画の真実
かすみの風景画と呪われた骨董品の怪異
山々に囲まれた静かな日本の田舎町。朝になると霧がゆっくりと山肌を這い、昼には鳥の声と川のせせらぎが響き、夕方には赤く染まった空が瓦屋根を照らす――そんな風景の中に、ひとつだけ異質な雰囲気を放つ古い木造の建物があった。
骨董品店「古き灯(ふるきあかり)」。
店主は若い女性、ナナコ。都会での生活に疲れ、祖母が営んでいたこの店を継ぐため、単身でこの田舎に移り住んだ。
「古い物には魂が宿る。大切に扱えば、きっと応えてくれるよ」
幼い頃、祖母がそう語っていた言葉を胸に、ナナコは毎日、店の掃除をし、埃をかぶった品の一つひとつに手を触れ、静かに語りかけながら磨いていた。
しかし、そんな平穏な日々は――“あの日”を境に、ゆっくりと歪み始める。
◆
それは雨が降る前触れのような、重い空気の日だった。
カラン……
ドアベルが鳴り、ナナコが顔を上げると、白髪の老人がゆっくりと店の中へ入ってきた。
「……ここが骨董店か」
「はい、何かお探しでしょうか?」
老人は何も答えず、背中に背負った古びた風呂敷包みをカウンターに置いた。その手は異様に細く、まるで血の気が通っていないかのように冷たそうだった。
「これを……預けたい」
「預ける……?」
老人は震える唇で続けた。
「金は要らん。ただ……絶対に、夜に見てはならぬ」
その目は、何かに怯えるように揺れていた。背後には誰もいないはずなのに、何度も振り返りながら、老人は去っていった。
残された風呂敷の中には、古く黄ばんだ木枠に収められた風景画があった。
霧に覆われた山道、その中央に、白い着物の女性が背を向けて佇んでいる。
「……かすみの風景画、か」
ナナコが思わず呟くほど、その絵は美しかった。だが、同時に何か胸の奥をざわつかせる、不気味な静けさを秘めていた。
◆
夕暮れ。
ナナコは絵を店の奥、もっとも古い棚の上に飾った。
「これでよし……」
だが、背を向けた瞬間。
カラン……カラン……
何も吊るされていないはずの天井から、鈴のような音が響いた。
「風でも入ったのかしら……」
そう思って窓を確認するが、外は静まり返っている。
気味が悪いと感じながらも、その日は閉店準備をして階段を上がった。
しかし――背後からの視線だけが、いつまでも消えなかった。
◆
夜中、ふと目を覚ます。
――カラン……カラン……
再び、あの鈴の音。
「また……?」
寝室の扉を少しだけ開けて下を覗くと、暗闇の中に、ぼんやりと光を反射する絵のキャンバスが見えた。
絵は、朝と同じ場所にある。だが――
「……え?」
女性の背中が、少しだけこちらに向いているように見えた。
「気のせいよ、ナナコ……疲れてるのよ……」
自分に言い聞かせ、布団をかぶる。しかし、眠りに落ちる直前。
《……みてる……》
耳元で、かすかな声がした。
◆
翌日、常連の配達員がやってきた。
「最近、山の方で妙な噂があるの知ってるか?」
「噂?」
「“かすみ”って名の女の幽霊が出るってさ。婚約者を事故で失って、その遺体を探しに霧の中をさまよったまま、戻ってこなかった女……」
ナナコの背中を冷たいものが這い上がる。
「その幽霊、風景画に姿を現すことがあるらしい。見た人は――数日後、消えるんだと」
「消えるって……」
「文字通りさ。誰にも気づかれないまま、霧に飲まれるように」
配達員はそう言って笑ったが、その目は冗談ではない光を帯びていた。
◆
日が沈んだ頃、店の外で風が鳴いた。
ナナコは片付けをしながら、ふと絵に目をやる。
――女の姿が、今度は半身をこちらに向けていた。
「……間違いなく……動いてる」
信じたくない。だが、確かに“向き”が変わっている。
《……ナナコ……》
耳元で、かすれた声。
「だれ……?」
《……あたしを、わすれたの……?》
その瞬間、背後の闇から白い指が覗いた気がして、ナナコは悲鳴をあげた。
◆
その夜、眠りにつくことはできなかった。
カラン……カラン……
音は部屋の壁の向こう側から鳴っている。
《……みて、わたしを……》
ナナコは布団を握りしめ、震えながら絵を見る。
女性は完全にこちらを向いていた。顔は――まだ見えない。ただ、空洞のように黒く塗りつぶされていた。
《かおが、ないの……》
「な、なんで私に……!」
《あなたが、思い出して……わたしを……》
その声には、怨嗟と悲しみ、そして寂しさが入り混じっていた。
◆
翌日。
店の前には、一人の老婆が立っていた。背中を丸め、ぼろぼろの編み笠をかぶっている。
「あの絵……まだあるかい」
「おばあさん、知っているんですか?」
老婆はゆっくりと頷き、低い声で語り始めた。
「昔、この村には“かすみ”という娘がいた。婚礼の前日に恋人が行方不明になってね、霧の中へ探しに行ったきり戻らなかった」
「それで、その姿を描いたのが……」
「かすみ自身さ。彼を待ちながら描き続けた。やがて、彼女も霧と一緒に消えた。その絵だけを残してね」
ナナコの心臓が高鳴る。
老婆はナナコの目を真っ直ぐに見た。
「あの絵は、忘れられるたびに泣いてるんだよ。だから……誰かに見ていてほしいのさ」
◆
夜。
覚悟を決め、ナナコは絵の前に立った。
「かすみさん」
呼びかけると、絵の中の霧が揺れた。
「……あなたを、忘れない。ここで、語り継いでいく」
その瞬間。
――カラン……
鈴の音は、一度だけ優しく鳴った。
かすみの顔はまだ空洞のままだが、その輪郭は僅かに柔らかくなり、口元が微笑んだように見えた。
◆
それからというもの、ナナコの店には妙な客が増えた。
「ここに“かすみの絵”があると聞いて……」
「一度だけでいい、見せてほしい」
皆、どこか哀しげな目をして絵を見つめ、静かに帰っていく。
不思議なことに、誰も怖がらない。ただ、懐かしい人に会ったような表情を浮かべるのだ。
◆
夜になると、絵の前で小さな風鈴の音が鳴る。
それはもう、恐怖ではなかった。
――カラン……カラン……
まるで、どこか遠い場所で待ち続ける誰かが「まだここにいるよ」と囁くような、そんな音色だった。
だが、ナナコはまだ知らない。
この物語に、終わりなどないということを。
なぜなら――
《……まだ、帰ってきていない人がいるから……》

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