夜だけ聞こえる子守唄|新居で起きた怪異
東京で働き始めて七年目になる。
仕事にも慣れ、給料もそれなりに上がった。休日には友人と食事をしたり、気が向けば一人で映画を見に行ったりする。恋人はいない。結婚の予定もない。
それでも、特に寂しいとは思っていなかった。
そんな私が、会社から少し離れた場所にある古いマンションへ引っ越したのは、仕事の都合だった。
私――由美は、上司が進めている大きな再開発プロジェクトの担当になった。
現場へ朝早く向かう日も多く、終電近くまで残業することも珍しくない。
「しばらく現場の近くに住んだほうがいいんじゃないか?」
そう言われたのがきっかけだった。
会社から住宅手当も出るというので、私は二週間ほど物件を探し、ようやく今の部屋を見つけた。
駅から徒歩八分。
築三十年以上。
五階建ての鉄筋コンクリートマンションで、私の部屋は四階の角部屋。
家賃は周辺相場より少し安かった。
内見したとき、私はその理由を聞かなかった。
ただ、部屋に入った瞬間、妙に静かな場所だと思った。
窓の外には住宅街が広がっている。道路も近い。駅も遠くない。
なのに、部屋の中にいると、外の音がまるで遮断されているようだった。
「静かでいい部屋ですよ」
不動産会社の男性は笑っていた。
「女性の一人暮らしにも人気です」
私はその言葉を信じた。
引っ越して三日目の夜までは。
その夜、私は午前一時過ぎまで仕事をしていた。
シャワーを浴び、冷蔵庫から水を取り出し、ベッドへ入った。
電気を消す。
部屋は真っ暗になった。
スマートフォンを枕元に置き、目を閉じる。
そのときだった。
どこからか、女の声が聞こえた。
「……ねんね……」
私は目を開けた。
「……え?」
しばらく耳を澄ます。
何も聞こえない。
私は苦笑した。
疲れているのだろう。
最近は睡眠時間も短かった。
もう一度、目を閉じた。
すると。
「ねんね……ころり……」
今度は、はっきり聞こえた。
女性が小さな声で歌っている。
子守唄だった。
私は布団の中で固まった。
歌声は、部屋のどこから聞こえているのか分からない。
壁の向こうではない。
窓の外でもない。
もっと近い。
まるで、同じ部屋の中から聞こえているようだった。
「……誰?」
思わず声を出した。
子守唄が止まった。
静寂が戻る。
私はベッドから起き上がった。
部屋の電気をつける。
当然、誰もいなかった。
リビング。
キッチン。
浴室。
トイレ。
全部確認した。
玄関の鍵もかかっている。
「……気のせいか」
そう呟いて、私はベッドに戻った。
そのとき。
ベッドの下から、小さな声がした。
「……ねんね……」
全身の毛が逆立った。
私は動けなかった。
そして、ゆっくりと視線だけを床へ向けた。
ベッドの下は暗い。
何も見えない。
けれど、確かにそこから聞こえている。
「……ころり……」
私はその夜、ベッドから離れてソファで朝まで過ごした。
翌朝になると、昨夜のことが馬鹿らしく思えた。
疲労と寝不足。
それに、引っ越したばかりの環境。
きっと何かの音を子守唄だと勘違いしたのだ。
そう考えることにした。
しかし、その日の夜。
また聞こえた。
「ねんね……ねんね……」
今度はベッドの下ではなかった。
キッチンだった。
私は包丁を握ったまま動けなくなった。
歌声は冷蔵庫の横から聞こえている。
「……誰なの?」
返事はない。
ただ、子守唄だけが続く。
そして最後の一節だけ、昨日とは違っていた。
「……おやすみ……由美ちゃん……」
包丁が床に落ちた。
カラン、と乾いた音が響いた。
私はそのまま玄関へ走った。
靴も履かず、廊下へ飛び出した。
エレベーターのボタンを何度も押す。
その間も、部屋の中から子守唄が聞こえていた。
私はその夜、近くのビジネスホテルに泊まった。
翌朝、会社へ行くと、同僚の真紀が私の顔を見るなり眉をひそめた。
「由美、寝てないでしょ?」
「……ちょっとね」
「新しい部屋、どう?」
私は一瞬迷った。
「……普通だよ」
そう答えた。
幽霊が出るなんて話をして、笑われるのが嫌だった。
ところが、昼休み。
真紀が何気なく言った。
「そういえば、あのマンションって昔から変な噂あるよ」
私は箸を止めた。
「……どんな?」
「詳しくは知らない。でも、昔住んでた人が急に出ていったとか。夜中に子供の声が聞こえるとか」
「子供?」
「うん。たぶん十年以上前の話だけどね」
私は笑おうとした。
けれど、顔が引きつっていたと思う。
「……子守唄は?」
真紀の箸が止まった。
「え?」
「子守唄を聞いたっていう話は?」
真紀は少し考えた。
「それは聞いたことないな」
その日の帰り、私は管理会社へ電話した。
「すみません。部屋について少し聞きたいことがあって……」
担当者は最初、普通に対応していた。
しかし、私が部屋番号を伝えた瞬間。
電話の向こうで沈黙した。
「……何か問題でも?」
「いえ……その部屋、以前に何かありましたか?」
長い沈黙のあと、担当者は言った。
「特に問題はありません」
「本当に?」
「はい」
それだけだった。
電話はすぐに切れた。
消えない子守唄と、部屋に残された秘密
その夜、私は友人の家へ行こうと思った。
だが、仕事が終わったのは午後十一時半。
疲れ切った私は、結局自分の部屋へ戻った。
玄関を開ける。
部屋は暗い。
私は電気をつけた。
何も変わっていない。
そう思った。
しかし、リビングのテーブルの上に、一枚の古い紙が置かれていた。
「……何これ?」
拾い上げる。
子供が描いたような絵だった。
クレヨンで描かれた四人の人間。
母親らしき女性。
小さな女の子。
男。
そして、もう一人。
黒く塗りつぶされた人間。
絵の下には、子供の字でこう書かれていた。
「おかあさん、まだねむってる」
私は紙を落とした。
その瞬間。
部屋の電気が消えた。
「……え?」
真っ暗になる。
そして、すぐ近くから歌声が聞こえた。
「ねんね……ころり……」
私は息を止めた。
歌声はキッチンでもベッドの下でもない。
私の背後だった。
振り返ることができない。
「……おやすみ……由美ちゃん……」
耳元で囁かれた。
私は叫びながら玄関へ走った。
ドアを開ける。
廊下に飛び出す。
そして、隣の部屋のドアが開いた。
「どうしたんですか?」
出てきたのは、七十歳くらいの女性だった。
「す、すみません……」
「あなた、四〇二号室の人?」
私は頷いた。
女性の顔から血の気が引いた。
「……そう」
「何か知ってるんですか?」
女性はすぐに周囲を見回した。
そして、小声で言った。
「部屋の中で、子守唄を聞いたのね?」
私は言葉を失った。
「……どうして?」
女性は答えなかった。
代わりに、私の腕を掴んだ。
「今夜は部屋に戻っちゃ駄目」
「何があるんですか?」
「あの部屋は……夜になると、誰かを探すの」
「誰かを?」
女性は震える声で続けた。
「昔、このマンションで女の子が死んだの」
私は息を呑んだ。
「母親と二人で暮らしていた子だった。でも、ある夜、母親がいなくなって……」
「……どこへ?」
「警察は母親が娘を置いて逃げたと思った。でも、女の子はずっと母親を待っていた」
女性は廊下の奥を見つめた。
「夜になると、母親が歌ってくれた子守唄を歌っていたそうよ」
「その子は……どうなったんですか?」
女性はしばらく黙っていた。
「一週間後、部屋の中で見つかった」
「……死んで?」
女性は頷いた。
「でもね、おかしいの」
「何が?」
「発見されたとき、その子はベッドの下にいたの」
私は背筋が凍った。
「ベッドの下……?」
「うん。そして、亡くなる直前まで母親を呼んでいたらしい」
女性は私の目を見た。
「だから、夜に子守唄を聞いても、絶対に返事をしちゃいけない」
その言葉を聞いた瞬間。
私のスマートフォンが鳴った。
画面には、知らない番号が表示されていた。
私は出なかった。
しかし、留守番電話が自動的に録音を始めた。
数秒後。
再生された音声を聞いて、私は凍りついた。
「……由美ちゃん……」
私の名前だった。
そして、その後ろから子守唄が流れている。
女性も聞いていた。
「……やっぱり」
「何が……?」
「あの子、あなたを母親だと思ってる」
私は首を振った。
「そんな……私、あの子を知らない」
女性は黙った。
その顔を見て、私は気づいた。
この人は何かを隠している。
「あなた……何を知ってるんですか?」
「……何も知らない」
「嘘ですよね?」
女性は答えなかった。
私はその夜、ホテルへ戻った。
翌朝、管理会社へ退去を申し出た。
ところが、担当者から意外なことを言われた。
「四〇二号室は、以前にも短期間だけ女性が住んでいました」
「いつですか?」
「五年前です」
「その人は?」
「すぐに退去しました」
「理由は?」
担当者は答えなかった。
私はそのまま会社へ向かった。
だが、仕事中もあの子守唄が頭から離れない。
午後になって、プロジェクトの資料を整理していると、古い土地資料の中に見覚えのある住所があった。
現在のマンションが建つ前、その場所には古い木造住宅があったらしい。
さらに調べると、建物の取り壊し前に事故があったことが分かった。
私は古い新聞記事を見つけた。
そこに載っていた写真を見た瞬間、息が止まった。
写真には、昔のマンション周辺を写した一枚の家族写真があった。
母親。
女の子。
そして父親。
私は写真を拡大した。
女の子の顔を見て、言葉を失った。
なぜなら。
その子の顔が、私にそっくりだった。
目元も。
口元も。
顔の輪郭も。
まるで子供の頃の自分を見ているようだった。
私は慌てて母に電話した。
「お母さん、昔、私が生まれる前にこの辺に住んでたことある?」
電話の向こうが静かになった。
「……どうしてそんなこと聞くの?」
「答えて」
母はしばらく黙っていた。
そして、震える声で言った。
「その住所には……行かないで」
「どうして?」
「あなたには関係ないの」
「写真に写ってる女の子、誰?」
電話の向こうで、母が息を呑んだ。
「……見たの?」
「誰なの?」
母は答えなかった。
ただ、最後に一言だけ言った。
「あの子の名前は、由美よ」
電話が切れた。
私は画面を見つめたまま動けなかった。
私の名前と同じだった。
その日の夜。
私はマンションへ戻った。
もう怖くなかった。
いや。
正確には、怖さよりも知りたい気持ちが勝っていた。
部屋の鍵を開ける。
中は暗い。
私は電気をつけた。
すると、テーブルの上に新しい紙が置かれていた。
昨日の絵とは違う。
今度は三人が描かれていた。
母親。
小さな女の子。
そして、私。
絵の下には、こう書かれていた。
「おかえり」
その瞬間、ベッドの下から音がした。
コツ。
コツ。
コツ。
何かが、床を叩いている。
私はベッドの前に立った。
「……あなたなの?」
返事はない。
しばらくして、ベッドの下から小さな手が出てきた。
白い手だった。
私は後ずさった。
そして、その手が握っているものを見た。
古い写真だった。
写真を拾い上げる。
そこには、母と幼い私が写っていた。
私は知らない写真だった。
裏を見る。
日付は、私が生まれる前。
あり得ない。
私はその場に座り込んだ。
すると、ベッドの下から声がした。
「……おかあさん……」
私は震えながら答えた。
「私は……あなたのお母さんじゃない」
しばらく沈黙が続いた。
そして。
「……知ってるよ」
子供の声だった。
私は顔を上げた。
「じゃあ……どうして私を呼ぶの?」
ベッドの下から、小さな笑い声が聞こえた。
「だって、お母さんが言ったから」
「何を?」
「次の由美ちゃんが来たら、一緒に寝ようって」
私は息を止めた。
「次の……由美?」
その瞬間、玄関のドアがゆっくり開いた。
鍵はかかっていたはずだった。
廊下から、誰かが入ってくる。
足音。
一歩。
また一歩。
私は動けなかった。
そして、部屋の入口に女が立った。
長い髪。
白い服。
俯いた顔。
その女が顔を上げた。
私は悲鳴を飲み込んだ。
その顔は、私の母だった。
「……お母さん?」
女は微笑んだ。
「やっと帰ってきたのね」
私は後ずさった。
「違う……あなたは母じゃない」
女は首を傾げた。
「どうして?」
「母は今、生きてる」
「そうね」
女は笑った。
「でも、あなたのお母さんは一人じゃないでしょう?」
意味が分からなかった。
そのとき、ベッドの下から子供の声がした。
「お母さん、歌って」
女が微笑む。
そして、ゆっくり歌い始めた。
「ねんね……ころり……」
私は耳を塞いだ。
「やめて!」
だが、歌声は止まらない。
「ねんね……ころり……」
部屋の壁が揺れているように感じた。
床が軋む。
天井から何かが落ちてくる。
古い写真。
一枚。
また一枚。
床いっぱいに写真が散らばった。
私はその中の一枚を拾った。
そこには、昔の私が写っていた。
いや。
よく見ると、私ではなかった。
私によく似た、別の女の子。
写真の裏には名前が書かれていた。
「由美」
次の写真。
また「由美」。
その次も。
さらにその次も。
年代が違う。
服装も違う。
それなのに、全員が同じ顔をしている。
私は理解した。
この部屋が探していたのは、母親ではなかった。
「……私を待ってたの?」
ベッドの下から返事があった。
「うん」
「どうして?」
「一緒に寝るため」
私は逃げようとした。
しかし、足が動かなかった。
女が私の背後に立っている。
耳元で囁く。
「怖がらなくていいのよ」
「あなたも、昔は怖かったでしょう?」
私は振り返った。
そこには誰もいなかった。
代わりに、ベッドの下から小さな顔が覗いていた。
女の子だった。
長い髪。
青白い顔。
そして、私と同じ目。
女の子は笑った。
「今度は、私がお姉ちゃんになるね」
私は叫び声を上げた。
次の瞬間、部屋の電気が点いた。
静かだった。
何もいない。
床に散らばっていた写真も消えていた。
ベッドの下を覗く。
何もない。
私はそのまま部屋を飛び出した。
翌朝、私は会社へ退職届を提出した。
マンションも解約した。
母には何度聞いても、昔のことを話してくれなかった。
私は二度とあの場所へ戻らなかった。
それから半年が経った。
私は別の街で暮らしている。
新しい部屋では、夜も静かだった。
子守唄は聞こえない。
あのマンションのことも、少しずつ忘れかけていた。
けれど、夜になると決まって何かがおかしくなる部屋の話を思い出すことがある。たとえば、真夜中になると決まって開いてしまう引き出しにまつわる、不思議な話のように、普段なら気にも留めない小さな異変が、夜には別の意味を持つことがある。
そんなある夜。
私は仕事を終えて帰宅した。
玄関を開ける。
部屋の中は真っ暗だった。
電気をつける。
すると、テーブルの上に小さな紙が置かれていた。
私は立ち尽くした。
紙には、子供の字で一言だけ書かれていた。
「おかえり、由美ちゃん」
私は震える手で紙を裏返した。
そこには、見覚えのない住所が書かれていた。
そして、その下に小さな文字が並んでいた。
「次は、あなたの家で待ってる」
その瞬間。
ベッドの下から、あの歌が聞こえた。
「ねんね……ころり……」
私は動けなかった。
歌声は少しずつ近づいてくる。
「ねんね……ころり……」
やがて、歌声が止まった。
静寂。
そして。
ベッドの下から、小さな声がした。
「……今度は、逃げないでね」
私はゆっくりとベッドから離れた。
そのとき、スマートフォンが鳴った。
画面には母からの着信が表示されている。
私は震えながら電話に出た。
「……もしもし?」
母は何も言わなかった。
ただ、電話の向こうから子守唄が聞こえた。
「ねんね……ころり……」
私は息を止めた。
そして母が、泣きながら呟いた。
「由美……ごめんなさい」
「どうして……?」
「あの子が欲しかったのは、あなたじゃない」
「……え?」
母の声が震えた。
「あの部屋にいる子は……あなたのお姉ちゃんよ」
電話が切れた。
私は何も考えられなかった。
ただ、ベッドの下を見つめていた。
暗闇の中から、ゆっくりと二つの目が開いた。
そして、子供が笑った。
「やっと、思い出した?」
その夜から。
私の部屋では、毎晩午前二時十三分になると、子守唄が聞こえるようになった。
それは、決して同じ場所から聞こえるわけではない。
リビングから聞こえる夜もある。
浴室から聞こえる夜もある。
クローゼットの中から聞こえる夜もある。
そして、ときどき。
ベッドの下から聞こえる。
そんな夜は、決まって最後に一言だけ聞こえる。
「お姉ちゃん、まだ眠らないの?」
私は今でも眠れない。
そして最近になって、ひとつだけ気づいたことがある。
子守唄が聞こえるのは、いつも夜だけだと思っていた。
けれど、本当は違った。
子守唄が聞こえない時間は、あの子が眠っているだけなのだ。
だから、もし夜中にどこからか子守唄が聞こえてきたら。
絶対に探してはいけない。
絶対に返事をしてはいけない。
そして――
ベッドの下を、決して覗いてはいけない。
なぜなら、そこにいるものは、あなたを見つけるために歌っているのだから。

コメントを投稿