夜にだけ開く引き出し|午前一時十三分に起こる恐怖

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引き出しが勝手に開き続けるので、女性は怖がっていた。

東京近郊の静かな住宅街に、一棟の古いマンションが建っていた。駅から徒歩十分ほど。外観は少し古びているものの、家賃は周辺より安く、オートロックも付いている。仕事に追われる独身女性にとっては、悪くない物件だった。

その部屋を選んだのが、二十九歳の会社員、イノだった。

細身で長い髪を持ち、整った顔立ちのイノは、会社ではよく男性社員から食事に誘われていた。しかし本人は恋愛にあまり興味がなく、ずっと独身だった。

「実家から会社まで、片道二時間はもう無理……」

そう言って、両親と暮らしていた家を出ることにした。

引っ越しの日、母親は何度も念を押した。

「本当に一人で大丈夫? 何かあったらすぐ帰ってきなさいよ」

「大丈夫だって。もう子供じゃないんだから」

「そうだけど……」

母親は玄関で部屋を見回し、少しだけ眉をひそめた。

「どうしたの?」

「……ううん。何でもない」

それ以上、母親は何も言わなかった。

新居の中央には、小さなテーブルと古い木製の収納棚が置かれていた。前の住人が置いていったものらしい。

イノは不動産会社に聞いた。

「この棚って、処分してもいいんですか?」

「ええ。前の入居者が置いていった物なので、不要でしたら処分してください」

棚には三段の引き出しが付いていた。

一番上は普通の引き出し。

二段目も普通。

しかし、一番下だけが妙に重かった。

「何が入ってるんだろう……」

イノが引っ張ってみると、途中で何かに引っかかった。

ガタッ。

「……?」

力を入れても、それ以上は開かない。

結局その日は放置した。

午前一時十三分、引き出しが開く夜

引っ越し初日の夜。

荷物を整理し終えたイノは、シャワーを浴びてベッドに入った。

午前一時を過ぎた頃だった。

カタン……。

小さな音がした。

イノは目を開けた。

「……何?」

部屋は真っ暗だった。

エアコンの音だけが聞こえる。

カタン……。

今度ははっきり聞こえた。

リビングからだった。

イノはスマートフォンのライトを点け、恐る恐る廊下へ出た。

そして、リビングに入った瞬間、足が止まった。

昼間、途中までしか開かなかった一番下の引き出しが、完全に開いていた。

「……え?」

イノは近づいた。

中には何もない。

ただ、底に古い紙が一枚だけ置かれていた。

紙には、鉛筆で短い文字が書かれていた。

「夜に開いたら、閉めてはいけない」

「……誰がこんなものを?」

イノは笑おうとした。

前の住人の悪戯だろう。

そう思って紙を丸め、ゴミ箱へ捨てた。

そして引き出しを閉めた。

その瞬間だった。

ドン。

棚の奥から、何かが叩いたような音がした。

「……え?」

イノは動けなくなった。

ドン。

もう一度。

今度は明らかに、人間の拳で内側から叩いたような音だった。

「誰……?」

返事はない。

イノは急いで寝室へ戻り、鍵を掛けた。

翌朝。

引き出しは閉じたままだった。

「昨日は疲れてたから、変な夢でも見たのかな……」

そう考えることにした。

ところが、その日の夜。

午前一時十三分。

また、カタンという音がした。

引き出しが開いていた。

しかも今度は、中に紙が入っていた。

昨日とは違う文字だった。

「まだ一人だと思ってる?」

イノの背中を冷たい汗が流れた。

「……やめてよ」

震える手で紙を握った。

そのとき、背後から声がした。

「イノ……」

「きゃっ!」

振り返ると、誰もいない。

しかし、声は確かに聞こえた。

それは、母親の声だった。

「……お母さん?」

スマートフォンを見ると、母親から着信が入っていた。

イノはすぐに電話に出た。

「もしもし?」

『イノ? 今、家にいる?』

「うん。どうしたの?」

母親は少し黙った。

『……変なことを聞くけど、その部屋に古い引き出しはない?』

イノの顔から血の気が引いた。

「なんで知ってるの?」

電話の向こうで、母親が息を呑んだ。

『そのマンション……どこにあるの?』

「駅の近く。どうして?」

『そこ、昔……お父さんの妹が住んでいた場所なの』

「え?」

『でも、二十年以上前にいなくなったの』

イノは言葉を失った。

「いなくなったって……?」

『ある夜、突然いなくなった。警察も探したけど見つからなかった。それでね……』

母親の声が震え始めた。

『最後まで見つからなかった物が一つだけあったの』

「何?」

『あの人が使っていた、古い木の棚』

その瞬間。

リビングから、引き出しの開く音が聞こえた。

カタン……。

イノは電話を耳に当てたまま、ゆっくり振り返った。

一番下の引き出しが開いている。

だが、そこには紙ではなく、一枚の古い写真が入っていた。

写真には、若い女性が写っていた。

イノはその顔を見て、息を止めた。

「……お母さん」

『どうしたの?』

「写真に写ってる人……」

イノは写真を持つ手を震わせた。

「私にそっくりなんだけど」

電話の向こうで、母親が絶句した。

そのとき、背後から再び声が聞こえた。

「イノ……見つけた」

今度の声は、母親ではなかった。

写真の中の女性と同じ声だった。

イノは恐る恐る引き出しの奥を覗いた。

すると、奥の板に小さな隙間があることに気づいた。

指を入れて押すと、板が外れた。

その奥には、狭い空間があった。

そしてそこには、古びた携帯電話が一台置かれていた。

電源など入るはずがない。

しかし突然、画面が点灯した。

着信。

表示されていた名前を見て、イノは凍りついた。

「イノ」

自分の名前だった。

「……私から?」

震える指で通話ボタンを押した。

『もしもし』

聞こえてきたのは、自分自身の声だった。

『お願い。引き出しを閉めないで』

「あなた……誰?」

『私は、今のあなたじゃない』

「どういう意味?」

『あなたが今いる部屋は、最初から空き部屋じゃなかった』

イノは息を止めた。

『毎晩、一人ずつ消えるの。次は……あなた』

「嫌……」

『でも、一つだけ方法がある』

「何?」

長い沈黙の後、電話の向こうの自分が言った。

『午前一時十三分になったら、引き出しの中に入って』

「……え?」

『そうすれば、あの女が出ていく』

「そんなの無理よ!」

『大丈夫。あなたが入れば、今度は私が外に出られるから』

通話が切れた。

イノはその場から動けなかった。

やがて時計が午前一時十二分を示した。

カチッ。

引き出しがゆっくり開いた。

そして、中から女性の白い指が一本だけ伸びてきた。

「……いや」

二本。

三本。

やがて、長い黒髪の女が引き出しの中から這い出してきた。

顔は見えない。

しかし、その声だけははっきり聞こえた。

「やっと……帰れる」

午前一時十三分。

部屋の電気が消えた。

翌朝、マンションの管理人が部屋を訪ねた。

玄関には鍵が掛かっていた。

室内にはイノの荷物も服も、すべて残っていた。

ただし、イノ本人だけがいなかった。

警察が調べても、侵入者の痕跡は見つからなかった。

そして、リビングの古い棚。

一番下の引き出しは、固く閉じられていた。

数日後、新しい入居者がその部屋に引っ越してきた。

若い女性だった。

荷物を片付けていると、リビングの棚に気づいた。

「この棚、古いな……」

何気なく一番下の引き出しを開けようとした。

ガタッ。

開かない。

「壊れてるのかな」

その夜。

午前一時十三分。

カタン……。

引き出しが、ひとりでに開いた。

中には一枚の写真が置かれていた。

写真には、二人の女性が並んで写っていた。

一人は二十年以上前に消えた女性。

もう一人は、つい最近この部屋から消えたイノ。

そして写真の裏には、新しい文字が浮かび上がっていた。

「次は、あなた」

女性は写真を見つめたまま、動かなかった。

その背後で、引き出しがゆっくり閉じた。

カタン。

そして、その部屋には誰もいないはずなのに、イノの声だけが小さく響いた。

「……閉めちゃったね」

それ以来、そのマンションでは、毎晩午前一時十三分になると、どこかの部屋から必ず引き出しが開く音が聞こえるという。こうした身近な場所に潜む怪異は、学校を舞台にした怪談にも通じるものがあり、たとえば「学校の黒板にまつわる怖い話」のように、日常の中に突然現れる異変は、より強い恐怖を感じさせる。

そして一度その音を聞いた住人は、決して同じ朝を迎えられない。

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