電車を降りると、また同じ駅に戻っている
同じ駅に戻る
電車を降りると、戻っている。
それが、三十歳の会社員・水城美月(みずき・みづき)が、最後まで理解できなかった出来事だった。
美月は東京都内の小さな広告会社で働いていた。毎朝、決まった時間に家を出て、決まった駅から電車に乗る。そして仕事を終えれば、同じ路線を使って自宅へ帰る。
変化のない毎日だった。
だからこそ、あの日の出来事は、美月の記憶に一生消えない傷として残った。
その日、美月はいつもより一時間ほど遅く会社を出た。
時計を見ると、午後九時四十七分。
「遅くなっちゃった……」
誰もいなくなったオフィスで呟き、美月は急いで駅へ向かった。
駅のホームには、最終電車を待つ数人の乗客がいた。
やがて電車が入ってくる。
美月は何も考えずに乗り込んだ。
車内には、五人ほどしかいなかった。
向かい側には、黒いコートを着た老人。
少し離れた席には、制服姿の女子高校生。
そして、美月の斜め前には、顔を俯けた若い男が座っていた。
電車が動き始める。
ガタン、ゴトン。
いつもの音だった。
美月はスマートフォンを取り出し、ニュースを眺めた。何気なく開いた記事には、深夜のテレビや誰にも気づかれない出来事について書かれており、見出しには「誰も見ていないテレビ」という言葉があった。
しかし、三つ目の駅を過ぎた頃、妙なことに気づいた。
電車が停車しない。
普段なら途中で何度も停車するはずなのに、窓の外には暗闇しか見えなかった。
「……あれ?」
美月は顔を上げた。
車内アナウンスが流れる。
『次は――――』
そこで音声が途切れた。
ザーッというノイズだけが車内に響く。
美月は不安になり、隣の老人に声をかけた。
「すみません。この電車、どこ行きでしたっけ?」
老人はゆっくり顔を上げた。
その顔を見た瞬間、美月の背筋が凍った。
老人には、眉毛も、まつ毛もなかった。
そして、異様なほど真っ黒な目で美月を見つめていた。
「降りちゃいけないよ」
「……え?」
「次の駅では、絶対に降りちゃいけない」
老人は、それだけ言って再び俯いた。
その直後、車内の照明が一度だけ消えた。
そして――。
電車が止まった。
『まもなく、終点――――』
今度は、はっきり聞こえた。
美月は窓の外を見た。
そこには見たことのない駅があった。
古びた木造の駅舎。
錆びた看板。
そして駅名には、見慣れない漢字で「帰坂駅」と書かれていた。
「こんな駅……知らない」
ドアが開く。
他の乗客たちは誰も動かなかった。
美月だけが立ち上がる。
「すみません、ここって……」
誰も答えない。
美月は怖くなり、電車を降りた。
そしてドアが閉まった。
電車は暗闇の中へ消えていった。
「待って!」
美月はホームを走った。
しかし、電車の姿はすぐに見えなくなった。
駅には美月一人しかいない。
改札へ向かう。
だが、改札口の先には何もなかった。
階段を上がると、そこには深い山が広がっていた。
「……嘘」
電波もない。
地図アプリも現在地を表示しない。
美月は駅員室を探した。
すると、古い駅員室の中に一人の女性が座っていた。
白髪の老婆だった。
「助けてください。ここ、どこですか?」
老婆は美月を見て、驚いたように目を見開いた。
「……また来たのかい」
「また?」
「あんたは、何度もここへ来ている」
「そんなわけありません。私は初めてです」
老婆は首を横に振った。
「違う。初めてじゃない」
そして、壁に貼られていた古い写真を指差した。
そこには、駅のホームに並ぶ大勢の人間が写っていた。
美月は息を呑んだ。
写真の端に、自分がいた。
「……私?」
服装は今と違う。
しかし顔は間違いなく美月だった。
「これはいつの写真ですか?」
老婆は小さな声で答えた。
「二十年前だよ」
美月の頭が真っ白になった。
「そんな……ありえない」
「帰りたいなら、電車に乗りなさい」
「電車が来るんですか?」
「来る。ただし、次に降りたら……またここへ戻ってくる」
「どういう意味ですか?」
老婆は答えなかった。
その代わり、古い時計を指差した。
時計の針は午前零時十三分を示していた。
「零時十三分に電車が来る。その電車に乗って、一つだけ先の駅で降りなさい」
「一つだけ……?」
「そして、ホームで誰かに名前を呼ばれても、絶対に振り返らないこと」
美月は何度も頷いた。
やがて、遠くから電車の音が聞こえてきた。
ガタン……。
ゴトン……。
しかし、美月は妙な違和感を覚えた。
その音は、駅へ近づいてくるのではない。
駅の下から聞こえていた。
突然、ホームの床が大きく揺れた。
「来るよ」
老婆が呟いた。
暗闇から、電車が現れた。
普通の電車ではなかった。
窓の内側には、乗客がぎっしり詰まっていた。
全員がこちらを見ている。
そして――その中に、美月がいた。
「……え?」
車内にいる美月は、今の美月とまったく同じ顔だった。
ただし、その顔は泣いていた。
電車が止まる。
ドアが開いた。
車内の美月が、口を動かした。
「乗らないで」
声は聞こえなかった。
それでも、美月にははっきり意味が分かった。
「乗らないで」
だが背後から声がした。
「美月」
母親の声だった。
「美月、こっちよ」
続いて、父親の声。
「早く帰ろう」
そして、会社の同僚の声。
「水城さん、仕事終わったよ」
さらに、聞いたことのない男の声。
「美月……」
何人もの声が、同時に名前を呼び始めた。
「美月」
「美月」
「美月」
美月は目を閉じた。
振り返ってはいけない。
老婆に言われた言葉を必死に思い出した。
そのまま電車に乗り込む。
ドアが閉まった。
車内には誰もいない。
そして電車が動き出した。
一つ目の駅に到着する。
美月は降りた。
ホームには誰もいなかった。
駅名を見る。
「帰坂駅」
「……え?」
また同じ駅だった。
美月は慌てて駅舎へ走った。
しかし、駅員室には老婆がいない。
代わりに、机の上に一枚の紙が置かれていた。
そこには、震えた文字でこう書かれていた。
「次は、あなたが駅員になる番です」
美月は紙を落とした。
その瞬間、駅の時計が午前零時十三分を指した。
そして駅員室の電話が鳴った。
プルルル……。
プルルル……。
美月は恐る恐る受話器を取った。
「もしもし……?」
電話の向こうから、声がした。
「美月、帰ってきたの?」
それは、美月自身の声だった。
「……誰?」
「あなたが私をここに置いていったんでしょう?」
美月の手が震えた。
「私は、あなたなんか知らない」
「違うよ」
電話の声が笑った。
「忘れているだけ」
その瞬間、美月の頭の中に大量の記憶が流れ込んできた。
二十年前。
幼い美月は、この駅で電車事故に遭っていた。
そして、そこで死んでいた。
現在の美月は、生きている人間ではなかった。
毎晩、電車に乗り、会社へ行き、家へ帰る。
その日常そのものが、駅に閉じ込められた彼女が繰り返していた「最後の記憶」だったのだ。
だが、それだけではなかった。
机の引き出しを開けると、一冊の駅員日誌が入っていた。
最後のページには、こう書かれていた。
「今日も一人、電車から降りてきた。名前は美月。彼女には、自分が死んだことをまだ教えていない」
美月は震えながらページをめくった。
そこには何百人もの名前が並んでいた。
そして、その一番最後。
「次の駅員――水城美月」
美月はゆっくりと窓の外を見た。
ホームに電車が止まっている。
車内には、大勢の乗客がいた。
全員がこちらを見ている。
そして、先頭車両の窓には、あの老婆が立っていた。
老婆は微笑んでいる。
美月は初めて理解した。
あの老婆は、自分を助けようとしていたのではない。
自分の代わりを探していたのだ。
電車のドアが開いた。
駅のホームに、疲れ切った一人の女性が降りてきた。
女性はスマートフォンを握りしめ、不安そうに辺りを見回している。
「すみません……ここ、どこですか?」
美月は答えられなかった。
女性が近づいてくる。
「帰りの電車に乗っていたんですけど……」
美月は、かつて自分が言った言葉を思い出した。
そして、駅員室の扉をゆっくり開けた。
「大丈夫ですよ」
自分でも驚くほど穏やかな声だった。
「次の電車が来ますから」
女性は安心したように微笑んだ。
その瞬間、美月の背後にある時計が、午前零時十三分を示した。
そして、駅のアナウンスが流れた。
『まもなく、最終電車が到着します』
美月は窓の外を見つめた。
もう、逃げようとは思わなかった。
なぜなら彼女は知ってしまったからだ。
この駅から出る方法は、一つしかない。
誰かを代わりに残すこと。
その夜から、山奥にある存在しない駅「帰坂駅」では、毎晩同じ時間に駅員の声が聞こえるようになった。
「お帰りなさい」
「次の電車はこちらです」
そして、電車から降りてきた人間が必ず尋ねる。
「ここは、どこですか?」
すると駅員は、優しく微笑んで答える。
「大丈夫です」
「あなたは、ここへ来るのが初めてじゃありませんから」
もし、深夜の電車に乗っていて、見たことのない駅に到着したら。
もし駅名が「帰坂」と書かれていたら。
絶対にホームへ降りてはいけない。
そして、どこからともなく自分の名前を呼ばれても、決して振り返ってはいけない。
なぜなら、その声は――。
あなたを迎えに来た「あなた自身」かもしれないのだから。
電車を降りると、戻っている。
それは駅へ戻るという意味ではない。
あなたが忘れてしまった「あの日」へ戻っているのだ。

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