誰も見ていないテレビ|深夜に映る謎の出来事

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深夜に勝手についたテレビを見る女性|心理ホラー

夜の九時を回ると、東京の喧騒もどこか他人事のように遠のいていく。仕事帰りの足取りで静音(しずね)はいつもの商店街を歩いていた。端正な顔立ちに整ったメイク、落ち着いたオフィスカジュアルを着こなす彼女は、丸の内で働く有能な会社員として周囲から信頼されていた。しかし、彼女が一番心を安らげる場所は、いつだって家だった。

「母さん、ただいま」

静音は暖簾をくぐり、実家である小料理風のラーメン店「麺処 あやめ」のドアを開けた。出汁の良い香りが店内に満ちている。父が亡くなってから長い月日が経つが、この店と隣接する温かな家は、いつも母と静音の笑い声で満たされていた。今夜も二人は並んで家路につくはずだった。

「あら、静音。お帰りなさい。今日も遅くまでお疲れ様。スープの仕込みが終わったから、一緒に帰りましょうね」

奥から顔を出した母・恵子は、いつもの優しい笑顔で静音を迎えた。二人は毎晩こうして一緒に店を閉め、歩いて三分ほどの自宅へ帰るのが日課だった。


家に到着し、静音はリビングのソファに深く腰掛けた。母は台所で温かいお茶を淹れてくれている。

「母さん、明日は会社で大きなプレゼンがあるの。ちょっと緊張するな」

「大丈夫よ、静音。あなたは昔から努力家だし、お父さんに似て本番に強いんだから。母さんはいつでも応援しているわ」

湯気の立つ湯呑みをテーブルに置き、母は微笑んだ。静音はその温もりに包まれながら、深い安らぎを感じていた。何気ない日常。母と過ごす穏やかな時間。これ以上の幸せはないと、静音は本気で思っていた。

しかし、ここ数日、ひとつだけ不思議な出来事が続いていた。

深夜、静音が自分の部屋で寝ていると、一階のリビングからかすかな音が聞こえてくるのだ。砂嵐のような雑音と、ぼんやりとした青白い光。部屋を出て廊下から覗き込むと、誰もいないはずのリビングで、テレビが勝手に点いているのだった。

静音が経験するこの奇妙な出来事は、かつて噂された「真夜中に絵画が動き出した恐怖の一軒家」のような、家という安心できる場所が恐怖の舞台へと変わる瞬間を思わせるものだった。

「誰も見ていないテレビ……また点いてる」

静音は階段を降り、リモコンをとって電源を切る。画面が消えると、漆黒の静寂が部屋を支配した。ふと母の寝室のドアが少し開いていることに気づき、中を覗き込む。母はベッドの上で静かに背中を向け、すやすやと寝息を立てていた。

「もう、母さんたら。最近うっかりしてテレビを消し忘れることが増えたのかな。年をとったのかな……」

静音は苦笑いしながら母に毛布をかけ直し、自分の部屋へと戻った。


翌朝、静音は会社に出社した。オフィスに入ると、同僚の美香が心配そうな顔で近づいてきた。

「静音ちゃん、おはよう……顔色、少し悪くない? ちゃんと眠れてる?」

「おはよう、美香。ううん、大丈夫よ。ただ最近、夜中に家のテレビが勝手に点くことがあって……たぶん母が消し忘れてるだけなんだけどね」

静音は軽く微笑んだ。すると美香の表情が一瞬、不自然に固まった。美香は何かを言いたげに唇を震わせたが、すぐに瞳に深い悲しみをたたえ、力なく微笑んだ。

「そう……お母さん、ね。静音ちゃん、無理しないでね。辛いことがあったら、いつでも言ってね。みんな、静音ちゃんの味方だから」

「ありがとう、美香。でも本当に私、幸せだから大丈夫よ」

給湯室ですれ違った上司も静音の姿を見ると優しく肩を叩き、「今日のプレゼン、無理はしなくていいからな。体調を一番に考えなさい」と過剰なまでに気遣ってくれた。誰もが静音に対してどこか痛々しいものを見るような、哀憐の視線を向けていた。静音はそれを「私が連日残業しているから心配してくれているのだろう」と好意的に解釈していた。


その夜も、静音にはいつも通り母と二人で帰宅したように感じられた。夕食を終えると、母は早々に寝室へ向かった。

夜中の二時。やはり、あの音がした。

『ザザザ……ニュースをお伝えします……』

静音は目を覚ました。まただ。誰もいないリビングで、テレビが青白い光を放っている。

「母さんったら、また忘れてる……」

階段を降りてリビングに向かう途中、静音は妙な冷気を感じた。背筋が寒くなるような、湿った冷気だ。リビングのテレビには、古いニュース映像のようなものが映し出されていた。しかし、チャンネルを変えようとしてもリモコンが反応しない。

「あれ? 壊れてるのかな」

テレビに近づくと、突然、画面の砂嵐が激しくなり、甲高いノイズが響き渡った。画面の中に、黒い影のようなものが浮き上がってくる。それはじっと静音を見つめているようだった。

「な、何これ……!?」

恐怖で息が詰まる。その時、背後で「カチャリ」とドアが開く音がした。母の寝室からだった。

静音は弾かれたように振り返った。母が起きてきたのかもしれない。しかし、寝室の前に立っていたのは——顔の輪郭すら曖昧で、全身から不気味な黒い霧を漂わせる、異形の人影だった。

「ひっ……!?」

その「影」は、ゆっくりと静音に向かって手を伸ばしてきた。喉の奥から、歪んだ声が漏れ聞こえる。

『し……ず……ね……きづ……いて……』

「嫌! 来ないで!」

静音はパニックになり、テレビのリモコンを影に向かって投げつけた。そのまま自室へ逃げ帰り、布団をかぶって激しい震えに耐えた。あれは金縛りか、疲労による幻覚に違いない。そう自分に言い聞かせながら、静音は朝を待った。


翌日の夕方、仕事を早退した静音は、近所の内科と心療内科を併設したクリニックへ向かっていた。ここ数日の不眠と精神的な疲労が限界に近づいていると感じたからだ。途中で、向かいの家の田中おばさんと出くわした。

「あ、静音ちゃん……」

「田中さん、こんにちは」

田中おばさんは静音を見るなり、痛々しそうに目を伏せ、目元をハンカチで拭った。

「静音ちゃん、一人で大丈夫なの? ご飯はちゃんと食べてる? 何か手伝えることがあったら、遠慮なく言うのよ……」

「え? ええ、ありがとうございます。母も一緒にいますし、大丈夫ですよ」

静音がそう答えた瞬間、田中おばさんは息を飲み、言葉を失った。そして、何も言わずに深く頷き、涙をこらえるように立ち去っていった。

(どうして……? どうしてみんな、そんな目で私を見るの?)

静音の心に、小さな、しかし消えない違和感の棘が刺さった。


その夜、事件は起きた。

静音がリビングで一人で温かいお茶を飲んでいると、突然、部屋の電気が消えた。暗闇の中で、カチリと音がしてテレビが勝手に点く。

画面に映し出されたのは、いつもの番組ではなかった。防犯カメラの映像のような、荒いモノクロの映像だった。

画面の中には、雨の日の交差点が映っている。そして、傘を差して歩く一人の女性の姿。その女性の顔が見えた瞬間、静音の手から湯呑みが落ち、フローリングの上で砕け散った。

「……母さん……?」

映像の中の母は、買い出しの袋を持って道を渡ろうとしていた。その瞬間、画面の端から猛スピードで暴走してきた大型トラックが突っ込んできた。強烈なブレーキ音。激しい衝撃。母の体が宙を舞い、アスファルトの上に崩れ落ちる。画面は血の赤で染まり、そこで映像が止まった。

『特別報道番組:一ヶ月前、〇〇区交差点で起きた死亡事故について……』

アナウンサーの声が虚ろに響く。画面には、鮮明な文字でこう映し出されていた。

【死亡事故:「麺処 あやめ」店主・恵子さん(58歳)。現場で死亡が確認され、家族によって身元が確認されました】

「うそ……嘘よ……何これ、何の冗談!?」

静音は叫んだ。パニックになりながらテレビのコンセントを引き抜いた。しかし、画面は消えない。それどころか、画面の中から文字が消え、一つの日付が表示された。

それは、ちょうど一ヶ月前の日付だった。

「母さんは生きてる! さっきも一緒にご飯を食べたし、今だって部屋で寝てるわ!」

静音は錯乱状態で母の寝室へ走り、ドアを勢いよく開け放った。

「母さん! 母さん起きて! 変なテレビが——」

ベッドに向かって叫んだ静音の言葉が、途中で凍りついた。

そこには、誰の姿もなかった。

整然と整えられた布団。ほこりをかぶった枕。母が愛用していた洋服はすべて綺麗に整理され、部屋には生活感が一切なかった。まるで、何週間も誰も使っていないかのように。

「え……? 母さん……?」

静音はすがりつくようにクローゼットを開けた。そこにあったのは、黒い喪服と、見覚えのある桐の箱。中には、母の遺骨と遺影が入っていた。

その瞬間、静音の脳裏に、閉じ込められていた記憶の濁流が一気に流れ込んできた。


『静音さん、しっかりしてください! お母様が……事故で……』

『そんな……嘘でしょう……母さん……!』

警察からの電話。病院の冷たい廊下。白い布がかぶせられた母の遺体。密葬で行われた葬儀。近所の人々のすすり泣き。「一人になって可哀想に」という同僚たちの哀悼の言葉。

母を失ったあまりの衝撃で、静音の心は現実を受け止めることができなくなっていたのだ。

しかし静音が見ていた世界は、現実とは少しずつ違っていた。彼女自身も気づかないまま、心は悲しい現実から逃げ続けていたのだ。一ヶ月間、彼女が見ていた母の姿、会話、一緒に過ごした時間……そのすべては、深い悲しみの中で生まれた幻だった。

周りの人々——同僚の美香も、上司も、近所の田中おばさんも、静音の異変に気づいていた。だからこそ、誰も強く現実を突きつけることはできなかった。彼女が自分自身で真実に向き合う日を、ただ静かに待っていたのだった。

「あ……あああ……あああああっ!!」

喉がつぶれるほどの悲鳴が、静音の口から漏れた。逃げ場のない現実が、容赦なく彼女の心を打ちのめす。激しい過呼吸と押し寄せる絶望感が静音を襲い、彼女は床に倒れ込んで頭を抱えた。

「嫌だ……嫌だ嫌だ! 母さん! 私を一人にしないで!!」

その時、背後に温かい気配が降り立った。

静音が涙に濡れた目で振り向くと、そこにはあの恐怖の影ではなく、生前と変わらない、優しい笑顔を浮かべた母の姿(霊体)があった。

母は優しく静音の頭を撫でようとした。手はすり抜けて温もりは感じなかったが、確かにそこに母の愛が存在していた。

『静音……ごめんね。一人にしてしまって。でもね、もう現実を見なきゃダメよ。あなたは一人でも生きていける強い子なんだから……』

母の幽霊は、狂気に陥った娘を現実に引き戻すため、毎晩「誰も見ていないテレビ」を点け、事故の記憶を思い出させようとしていたのだ。恐ろしい怪奇現象は、すべて娘を想う母の最後のメッセージだった。

「母さん……ごめんなさい……私、現実から逃げてた……」

静音が泣き崩れると、母の姿は徐々に薄くなり、青白い光となって夜空へ消えて行った。


静寂が戻ったリビングで、テレビの画面が静かに真っ黒に戻った。

画面には、もう何も映っていない。ただ、涙で顔をくしゃくしゃにした、一人きりの静音の姿だけが、静かに映り込んでいた。

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