欲望を誘惑する幽霊と若きサラリーマンの恐怖物語
小さな町で欲望に囚われた男と幽霊の怪談
東京で働いていた23歳のサラリーマン、健太は突然の人事異動で、山に囲まれた小さな町にある支社へ転勤を命じられた。
「まさか、こんな田舎に来るなんてな…」
彼はため息をつきながらも、会社が用意してくれた古い一軒家に住むことになった。その家は築年数こそ古いが、掃除が行き届いていて清潔感があった。木の床が軋む音さえも、どこか懐かしさを感じさせる。
引っ越した初日の夜、健太は布団に横たわりながら天井を見つめていた。静かな町の夜は東京とは比べものにならないほど暗く、虫の声だけが響いていた。だが、不意に耳元で女の囁き声がした。
「…寂しいの?」
「えっ!? 誰だ!」
飛び起きた健太の目の前に、月明かりに照らされた美しい女が立っていた。白と青の薄衣をまとい、まるで神話の中の女神のようだった。
「私は、この家にずっといるの…」
女はそう言いながら微笑み、健太の顔を見つめた。
最初こそ夢だと思おうとしたが、彼女は何度も夜になると現れた。名前を尋ねても、彼女は答えない。ただ甘く優しい声で囁き、時に健太の体を優しく撫でる。
「ねぇ、私と一緒にいれば、どんな寂しさも忘れられるわよ…」
理性を必死に保とうとするが、彼女の美しさと妖しい雰囲気に抗うのは難しかった。
数日後、会社の同僚である田島という中年男性に飲みに誘われ、健太は家の話をした。
「古いけど悪くないんですよ。ただ…夜になると女の声が聞こえる気がして」
田島の表情が一瞬強張った。
「……あの辺りの家はな、昔から女の霊が出るって噂があるんだ。綺麗な顔をした幽霊で、男を誘惑するってな」
「やっぱり幽霊なんですか…?」
「気をつけろよ。欲に負けた男は、必ず消えるって言われてるんだ」
田島の言葉が耳に残ったが、健太はその晩も彼女に抗えなかった。
夜、女は健太の枕元に腰を下ろし、甘い吐息を漏らしながら囁く。
「あなたは、もう私から逃げられない…」
その言葉の直後、健太は無意識のうちに彼女を抱きしめていた。唇が重なり、そして二人は夜ごとに激しい交わりを繰り返すようになった。
彼の生活は一変した。会社では常に疲れているように見られ、同僚から心配されるほど顔色も悪くなった。食欲もなく、ただ夜を待つようになっていた。
「健太、大丈夫か?顔色が死んでるぞ」
「大丈夫です…ただ少し寝不足で」
田島の目には、健太の体から生気が失われていく様子がはっきりと映っていた。
ある晩、女は健太の上に覆いかぶさり、彼の耳に甘美な声で囁いた。
「もっと…もっと私を欲しがって。あなたが私を抱くたび、私の力は強くなるのよ…」
健太はその言葉に違和感を覚えた。だが快楽に支配され、理性はすぐに崩れていった。
やがて健太は恐ろしい夢を見るようになった。彼の腕の中にいる女の顔が崩れ、目も口もない黒い穴のような顔に変わっていく夢だ。体を絡めるたび、骨のきしむ音が聞こえ、口から血が滴る。
「やめろ…! お前は誰なんだ!」
夢の中で叫ぶと、女はにやりと笑い、囁いた。
「私は欲望そのものよ。あなたの命を吸い尽くす存在…」
目を覚ますと、彼女はいつもの美しい姿で微笑んでいた。
「どうしたの?夢でも見た?」
だが、健太の体は急速に痩せ細り、鏡に映る自分はまるで老人のようだった。
彼は昼間、町の図書館に足を運んだ。何か手がかりがあるはずだと考えたのだ。古びた資料を調べると、この町にはかつて「白妙姫」と呼ばれる女がいたと記録されていた。白妙姫は美貌で知られ、町の男たちを虜にしたが、嫉妬と裏切りの末に惨殺されたという。そして死後、彼女の怨霊は男の欲望を餌に生き続ける存在となった、と。
「やっぱり…あの女か」
健太の背筋は冷たくなった。
その夜、勇気を振り絞って彼女に問いただした。
「お前…白妙姫なのか?」
女は一瞬だけ目を細め、そして微笑んだ。
「そう呼ばれていたこともあったわ。でも、今はただの“欲望”よ」
その笑みは美しかったが、底なしの闇を孕んでいた。
日が経つにつれ、健太は現実と夢の区別がつかなくなっていった。昼間でも彼女の声が耳元で響き、会社にいても幻影のように彼女の姿が見える。
「ほら、ここでも私を抱いて…」
頭を振っても消えず、同僚に話しかけられても彼女の甘い囁きが上書きする。
田島は見かねて、ある晩お札を持って家を訪れた。
「これを部屋に貼れ!あの女は人じゃない、祓うしかないんだ!」
だが、女は健太の後ろで嘲笑していた。
「そんな紙切れで私を追い出せると思うの?」
お札は風もないのに燃え上がり、灰となって消えた。田島は蒼白になり、震える声で叫んだ。
「お前は…人じゃない!健太、逃げろ!」
「逃げられないの。彼はもう私の一部だから…」
健太は心のどこかでわかっていた。彼女と離れれば命は助かるかもしれない。だが、体は彼女の甘美な誘惑を求めていた。欲望に抗えず、夜ごとに彼女を求め続けた。
やがて決定的な夜が訪れた。女の体は今まで以上に冷たく、彼女の顔は美貌から黒い虚無へと崩れていった。
「あなたの命、もうすべていただくわ…」
彼女が囁いた瞬間、健太の視界は暗転し、全身から力が抜け落ちた。
翌朝、近所の人が様子を見に来た時、部屋の中には誰もいなかった。布団の上には人の形をした黒い焼け跡だけが残っていたという。
人々は恐怖に震え、その家を二度と訪れなくなった。町には再び「欲望を誘惑する幽霊」の噂が広まり、誰も夜にその家の前を通らなくなった。
だが、一部の者はこう囁く。
「まだあの家から女の笑い声が聞こえる」
「新しい住人が来るのを待っているんだ」
そして、その家を覗いた者は口を揃えて言う。
窓の奥に、美しい女が座って微笑んでいた、と――。
欲望に囚われた者は、決して救われない。あなたの心にも、彼女は忍び寄っているのかもしれない…。
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