雪女の誘惑に囚われた孤独な高校生の恐怖譚
雪女の誘惑が導く孤独な男子高校生の運命
冬の日本海側の小さな町に、ある男子高校生が暮らしていた。
彼の名前は「優斗(ゆうと)」。端正な顔立ちをしており、女子からも注目されることが多かったが、彼は人付き合いが苦手で、いつも一人でいることを好んでいた。
彼の家は山のふもとの古い木造家屋で、父は単身赴任中、母は病弱で寝込むことが多く、家の中も静まり返っていた。だからこそ、優斗は孤独を抱え、外の世界との距離を自然と置くようになっていた。
放課後、優斗は人気のない雪道を歩くのが習慣だった。人の声が遠ざかり、風と雪の音だけが耳に届くとき、彼はなぜか心が落ち着くのだった。
しかし、その静寂の中にある夜、耳元でかすかな声が囁いた。
「……寒くないの?」
優斗は思わず足を止め、振り返った。そこには白い着物を着た長い黒髪の女性が立っていた。月明かりに照らされたその顔は、透き通るほど美しく、雪景色に溶け込むように儚げだった。
「……誰だ?」
女性は微笑み、ゆっくりと近づいてきた。吐く息は白く、けれど彼女の周りの空気は異様に冷たかった。
「私は……雪女。あなたのこと、ずっと見ていたの。」
優斗の背筋を冷たいものが走った。雪女の話は昔話や怪談で聞いたことがあったが、まさか現実に目の前に現れるなど想像もしていなかった。
「冗談だろ……?」
「冗談じゃないわ。あなたは孤独でしょう? 誰にも心を開けずに……ずっと寂しさを抱えている。」
雪女の声は甘美で、耳に染み入るようだった。その言葉は図星で、優斗の心を揺さぶった。
――どうして、この女は俺のことを知っている?
「私なら、あなたを孤独から解き放てる。……私と一緒に来て。」
優斗は言葉を失った。その目は凍りつくように冷たいのに、同時に甘い誘惑を放っていた。
◆
その日以来、優斗は雪女に繰り返し遭遇するようになった。
授業を終えて帰る途中、雪の降り積もる神社の境内、あるいは夜の窓辺に映る影……。
雪女は決して彼に危害を加えなかった。むしろ、やさしく話しかけ、彼の孤独を癒やすような言葉を囁いた。
「あなたは人と違う。だから私は惹かれるの。」
「……僕をどうするつもりなんだ?」
「ただ、あなたを連れて行きたい。それだけ。」
優斗は困惑した。彼女に会うたび、不思議と胸が温かくなる一方で、体は凍りつくように冷え、指先が痺れるのを感じた。
ある晩、彼は夢を見た。
真っ白な雪原の中、雪女が彼の手を取り、微笑んでいる夢だった。
「ここにいれば、もう寂しくない。永遠に私と一緒にいられる。」
その言葉と同時に、優斗は胸の奥に強い引力を感じた。気づけば彼女の目を見つめ、抗えない欲望に呑み込まれていった。
しかし、夢から目覚めたとき、布団は濡れて冷たく、窓の内側には氷の花が咲いていた。
「……これも、彼女の仕業なのか。」
◆
「優斗、大丈夫?」
翌日、クラスメイトの一人である美咲が声をかけてきた。彼女は明るく活発で、優斗に唯一話しかけてくれる存在だった。
「最近、顔色悪いよ。何かあったの?」
「……いや、別に。」
優斗は視線を逸らした。しかし美咲は真剣な表情で彼を見つめ、声を潜めた。
「ねえ、最近この町で妙な噂があるの知ってる? 雪女に魅入られた男が、突然行方不明になるって……。」
その瞬間、優斗の心臓が大きく跳ねた。
「……ただの噂だろ。」
「でも、昔からある話みたい。気をつけた方がいいよ。」
美咲の声は震えていた。だが、優斗の胸には奇妙な感情が芽生えていた。恐怖と同時に、雪女に会いたいという欲望が抑えられなくなっていたのだ。
◆
雪の夜、優斗は再びあの神社へ向かった。
境内には雪女が待っていた。月光に照らされたその姿は、この世のものとは思えないほど美しかった。
「来てくれたのね、優斗。」
「……本当に、俺を連れて行くつもりなのか?」
雪女は微笑んだ。
「ええ。あなたは孤独だから。私と一緒にいることでしか、救われないの。」
「でも……俺はまだ、生きていたい。死にたくなんてない。」
「死ぬんじゃないわ。永遠に眠るだけ。」
その瞬間、優斗の心臓が凍りついた。
彼女の白い手が伸び、頬に触れる。触れた場所から、氷のような冷気が全身へと広がっていく。
「やめろ……!」
必死に振りほどこうとしたが、体は言うことを聞かなかった。意識が遠のきかけたとき、どこからか声が響いた。
「優斗っ!」
振り返ると、美咲が駆け寄ってきていた。手には御守りを握りしめ、必死の形相だった。
「その人について行っちゃダメ!」
雪女の顔から微笑みが消え、冷たい怒気が漂った。
「邪魔をするの……?」
吹雪が巻き起こり、美咲の体が大きく揺れる。彼女は必死に御守りを掲げ、震える声で叫んだ。
「消えて! この町から……!」
雪女の姿が一瞬揺らぎ、空気が張り裂けるような音を立てた。
「……優斗。あなたは必ず、また私を求める。」
そう囁くと、雪女は吹雪の中に溶けるように消えていった。
◆
静寂が戻り、優斗は雪の上に倒れ込んだ。体は冷え切っていたが、確かに生きていた。
「……助けてくれたのか。」
美咲は涙目で頷いた。
「本当に……危なかったんだよ。」
優斗は空を見上げた。降り続く雪の中、彼の心には恐怖と未練が入り混じっていた。
――俺は、本当に彼女を拒絶できるのだろうか?
胸の奥にはまだ、雪女の甘美な声が残響していた。
◆
数日後、町に奇妙な噂が流れ始めた。
「夜、山の神社に白い影が出る。あれに近づいた男は戻らない。」
優斗はその噂を耳にするたび、心臓が締めつけられるようだった。彼は雪女に再び会いたいという気持ちを抑えられず、同時に恐怖に囚われていた。
「優斗、絶対に行かないで。」
美咲は涙を浮かべて必死に訴えた。
「……俺だって、行きたくなんかないさ。」
そう答えながらも、優斗は夜になると無意識に窓の外を見つめてしまう。そこには必ず、白い影が立っている気がするのだ。
「……優斗。」
耳元に再び声が響く。幻聴なのか現実なのかもわからない。ただひとつ確かなのは、雪女の誘惑が彼の心に深く根を下ろしているということだった。
◆
そしてある夜、優斗は決断した。
「もし、もう一度現れたら……そのとき俺は……。」
彼の視線は暗闇の先、雪が降り積もる境内へと向かっていた。
人の心を凍らせる雪女の誘惑は、終わりを迎えるのか。それとも――さらなる悪夢の始まりなのか。
答えは、まだ雪の闇に隠されたままだった。
(終)
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