古民家での舞楽に取り憑かれた女子高生の恐怖譚
舞楽の仮面に囚われる少女と古民家の怪異
私の名前は美咲、高校二年生だ。父の転勤の都合で、家族と一緒に都会から遠く離れた山間の村に引っ越してきたのは、この春のことだった。
村は静かで、空気もきれい。けれども、どこか時間が止まったような不思議な場所だった。新しい家の隣には、古びた大きな古民家があり、村の人たちもあまり近づかない様子だった。
「美咲、その家には行かないでね」
と、母が引っ越してきた初日に言った。理由を聞いても、ただ「危ないから」としか答えてくれなかった。
古民家は、昼間でも陰鬱な雰囲気を漂わせていた。庭は雑草に覆われ、ひび割れた石畳には苔が生えている。崩れかけた門から覗くと、奥には広い舞台のような空間が見えた。おそらく昔は祭りや儀式で使われていたのだろう。
夜になると、その古民家はさらに不気味な存在感を増す。月の光が差し込むと、割れた障子の隙間から赤い光が漏れ、笛や太鼓のような音が風に乗って聞こえてくることがあった。
ある晩、勉強机に向かっていたとき、窓の外に赤い光がちらついた。驚いてカーテンを開けると、古民家の庭で奇妙な舞を踊る人影が見えた。長い装束をまとい、金色の仮面をかぶった姿――まるで教科書で見た雅楽の舞楽そのものだった。
「……え? なんでこんなところで?」
恐怖と好奇心に駆られ、私は窓を少し開けた。すると、かすかに聞こえる太鼓の音とともに、その舞の主がゆっくりとこちらを向いた。
仮面の奥からは何も見えないはずなのに、確かに私をじっと見つめている気がした。
「美咲、何を見ているの?」
背後から声をかけられ、思わず叫んだ。振り向くと母が心配そうに立っていた。再び外を見ると、そこにはもう何もなかった。
翌日、私は学校で仲良くなったクラスメイトの結衣に昨夜の出来事を話した。
「古民家に舞楽の人影……? それ、本当ならヤバいよ」
「ヤバいって、どういうこと?」
結衣は声をひそめて言った。
「昔ね、その古民家では村の祭りのために舞楽が演じられていたんだって。でも、戦争のころに突然やめられて……その後、踊ってた人たちが次々とおかしくなったって噂があるの。『仮面に魂を奪われた』って」
私はぞっとした。そんな昔話が現実に目の前で起きているなんて信じられなかった。
数日後、夜になるとまた同じ光景を見た。今度は一人ではなく、二人、三人と舞う人影が増えていた。赤、緑、白の装束に身を包み、仮面をつけた舞楽の幽霊たちが無言で舞い続けていた。
その舞には奇妙な規則性があった。一定の動きの後に必ず空を仰ぎ、扇を広げる。その瞬間、赤い光が舞台全体を照らし、影が何倍にも大きく伸びるのだ。
「見てはいけない……」
誰かが耳元でそう囁いた気がして、慌てて窓を閉めた。
耐えきれず、私は結衣を誘って真相を確かめに行くことにした。
夜、懐中電灯を持って古民家へ近づく。軋む床板を踏むたび、胸が高鳴った。広間に入ると、かすかに香のような匂いが漂っていた。埃と湿気が混じり合った空気の中に、甘い香の煙が残っているように感じた。
「ここ……本当に誰も住んでないんだよね?」
「うん……でも、気をつけて」
そのとき、奥の舞台がぼんやりと赤く光り、笛の音が鳴り響いた。闇の中から、仮面をつけた舞楽の幽霊たちが現れ、私たちの前で舞を始めた。
「う、嘘でしょ……」
結衣が青ざめて震えている。私は動けなかった。
すると、一体の舞楽がゆっくりと私の方へ歩み寄ってきた。
「……あなたは……」
声にならない声が耳元で響いた瞬間、視界が暗転した。
目を覚ますと、自分の部屋の布団の上だった。しかし体中が冷たく、夢とは思えなかった。
翌朝、結衣から電話がかかってきた。
「美咲……あの夜のこと、覚えてる? 私、夢じゃない。まだ耳にあの笛の音が残ってるの」
私も同じだった。しかも鏡を見ると、首元に赤い線が残っていた。まるで仮面の紐で締めつけられた跡のように。
恐怖で震える中、祖母が昔語りしてくれたことを思い出した。
――仮面の舞は人を選ぶ。見てはいけない者が見ると、次の舞人にされてしまう。
それからというもの、夜になると必ず古民家の方から音が聞こえてきた。舞楽の幽霊たちが、次の仲間を探すように。
私は布団の中で震えながら耳をふさぎ、ただ祈ることしかできなかった。だがある夜、気づくと自分が古民家の舞台に立っていた。赤い装束を着せられ、手には扇を持って。
目の前には、仮面をかぶった無数の舞人たちがこちらを見ていた。
「お前の番だ」
低い声が頭の中に響いた。私は抵抗しようとしたが、体は勝手に舞を始めていた。
そして気づいた。
――あの夜からずっと、私は舞に囚われていたのだ。
朝になっても、誰も私を起こしに来ない。家族の声も聞こえない。窓から差し込む光の下、自分の影を見ると、そこには仮面をかぶった舞人の影が映っていた。
私はもう、戻れないのかもしれない。
さらに恐ろしいのは、結衣までもが同じ夢を見ていることだった。彼女も夜ごと舞台に立たされ、私の隣で舞っていたという。
「美咲……どうすればいいの? このままだと、私たち……」
「大丈夫……きっと方法があるはず」
そう言いながら、私自身は答えを持っていなかった。
その後、村の古老を訪ねた。
「古民家の舞楽を見てしまったのか……」
皺だらけの顔で老人は深いため息をついた。
「舞は神を招くためのものだった。しかし、誰かが禁じられた夜に舞をしたせいで、神ではなく怨霊が呼ばれてしまった。以来、あの舞台は死者の舞台になったのだ」
「どうすれば……助かりますか?」
私が必死に尋ねると、老人は目を伏せて言った。
「助かる道は一つ……お前たちの代わりに、別の舞人を迎えるしかない」
その言葉に、私と結衣は息を呑んだ。
つまり、誰かを犠牲にしなければ私たちは解放されないということだった。
夜が来るのが怖かった。だが逃げることはできない。再び舞台に立たされるのは分かっていた。
その晩、私の隣には結衣の姿があった。互いに目を合わせるが、言葉は発せなかった。二人とも仮面をかぶらされ、体は勝手に舞を踊り出す。
無数の舞人が取り囲む中、観客席のような暗闇の奥に、次の「候補者」と思われる影が見えた。私たちが巻き込まれたように、また新たな犠牲者が選ばれようとしているのだ。
「やめて……お願い、これ以上誰も……」
心の中で叫んでも、舞は止まらない。
やがて太鼓の音が最高潮に達し、すべての舞人が一斉に仮面を外した。そこにあったのは、顔のない虚ろな闇だった。
私は恐怖で息ができなくなり、視界が再び暗転した。
――気づくと朝だった。
しかし、布団の上にいたのは私一人だけ。結衣はどこにもいなかった。
慌てて学校へ行ったが、クラスの誰も「結衣なんて子は最初からいなかった」と言う。教師までもが首をかしげる。
家に帰って古民家を見ると、舞台には一人の新しい舞人が立っていた。白い装束を身にまとい、仮面をかぶったその姿――それは確かに、結衣だった。
私は叫んだが、誰にも届かなかった。
遠くでまた笛の音が鳴り響く。
次にその舞を目にするのは――あなたかもしれない。
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