呼び戻された故郷と水神の呪われた契約
私の村が消えた事件の真相
あの日、私はすべてを失った。
私は木村咲(きむら さき)、二十七歳。東京で事務の仕事をしているごく普通の女だった。だが、三日前に一通の封筒が届いたことで、私の人生は大きく狂い始めた。
その封筒には、誰の名前も差出人も書かれていない。中には、ぼろぼろになった一枚の写真と、こう書かれたメモが入っていた。
「帰ってこい。村はまだ終わっていない」
写真に写っていたのは、私が幼い頃に住んでいた山奥の村、「水神村(すいじんむら)」。十年以上前に、大規模な地すべりで村ごと消えたとされていた場所だった。
——あの村が、まだある?
半信半疑のまま、私は週末を使って山梨県の奥地へ向かった。地図にさえ載っていない、記憶だけを頼りに辿り着いた山道は、かつてと何も変わっていないように見えた。
……ただ、一つ違ったのは、空気が異様に静かで、まるで世界から切り離されたような感覚があったことだ。
山道を進むにつれて、胸が苦しくなっていく。
「こんなに息が詰まる場所だったっけ……?」
やがて、木々の間からあの鳥居が見えた。村の入口に立つ朱色の鳥居——記憶の中と同じだった。
「……うそ」
私は立ちすくんだ。
そこに、確かに村が存在していたのだ。
古い木造の家々、石畳の道、小さな神社。全部、十年前の姿のままだった。
「誰か、いますか……?」
声をかけても返事はない。代わりに、草むらの奥から風鈴の音が聞こえてきた。
「咲……咲なの……?」
その声に、背筋が凍った。
「……お母さん?」
草むらの向こうから、痩せこけた女性が現れた。顔は土と血で汚れていたが、間違いなく母だった。
「なんで……死んだはずじゃ……」
「咲、早く……早く帰らないと、また始まる……また……」
「何が始まるの? 村は崩れたんでしょ? 全員死んだって聞いたよ……」
「そうじゃない。あの夜、神様が怒ったの。私たちは……生贄を拒んだから」
言葉の意味が理解できなかった。
母は、震える手で私の腕を掴んだ。
「神様は、七年に一度、誰かを連れていくの。それが水神様との契約だったの。でも、十年前、村の若者たちが拒否したのよ。……そしたら、土砂が落ちてきて、すべてが埋もれた」
「待って……じゃあ、村が消えたのは……神様の怒り?」
「そう。でもね、神様はまだ終わっていない。契約が果たされなかったから、時間が止まったままなの。……咲、あなたが必要なのよ」
その時、空が突然黒く染まり、耳をつんざくような風が吹き荒れた。
「来た……! 水神様が……!」
母が叫んだ瞬間、村の奥から黒い影が浮かび上がった。人の形をしているが、目も口もなく、ただヌメヌメとした水に包まれているような異形の存在だった。
「咲……代われ……代わって……」
母が私を押しのけ、影の前に立ちはだかった。
「咲だけは、咲だけは……!」
そして、影が母を飲み込み、消えた。
呆然としたまま、私は膝をついた。
——村は、神に囚われたまま時が止まっていた。
逃げなきゃ。ここから。
必死で山を駆け下りた。背後で、村が再び音もなく崩れ落ちる音がした。
東京に戻っても、私はしばらく声が出せなかった。だが、一週間後——私は再び、あの封筒を見つけた。今度のメモにはこう書かれていた。
「契約はまだ果たされていない。次は七年後だ」
私の手は、震えていた。だが、どこかで分かっていたのだ。——私もまた、水神村の一部なのだ。
***
それから月日が流れた。私は東京で静かに暮らしていたが、夜になるとあの風鈴の音が耳元で鳴るようになった。
最初は幻聴だと思っていた。しかし、三年目の冬、会社の倉庫で黒く湿った手形を見つけてからは、確信に変わった。
——あの影は、私を追ってきている。
「咲さん、最近様子がおかしいですよ? 何かありましたか?」
心配してくれたのは、同僚の石井だった。私は口を濁しながらも、何度か「故郷のこと」で悩んでいると話した。
「気分転換にどこか出かけませんか? 旅行でもいいし……」
その言葉に私は、ある考えを思いついた。——一人で向き合うのが怖いなら、誰かと一緒に行けばいい。
そして私は、石井を連れて再び水神村を目指した。
道中、私はほとんど何も語らなかった。村がどうなっているのか、自分でも分からない。ただ、あの封筒がまた届いたのだ。今度はこう書かれていた。
「もう一人必要だ。契約を完了させよ」
到着した時、村は以前と同じ姿でそこにあった。
「えっ……こんな場所、本当にあったんですか……」
石井は驚いていた。しかしその直後、彼の顔が固まった。
「なんか、耳鳴りが……」
それは始まりの合図だった。空が再び黒くなり、地面が震え始めた。
「石井さん、走って! ここは危険なの!」
だが彼は動けなかった。黒い影が彼の足元から立ち上がり、身体を包み込もうとする。
「助けて……咲さん……」
私は咄嗟に叫んだ。
「私が代わりになる! この人は関係ない! 私を連れて行って!」
その瞬間、影は止まった。風も、音も、空気も静止した。
やがて、影は私に近づき、無言のまますっと消えていった。
気がつくと、私は村の入口に一人立っていた。
石井の姿はなかった。村も、家も、鳥居さえも跡形もなかった。
——すべてが終わったのだろうか。
いや、違う。
私の手のひらには、小さな風鈴が握られていた。それが意味するのは、まだ何かが続いているということだった。
七年後、私はまた呼ばれるのだろう。
——水神様との契約は、永遠に終わらないのかもしれない。
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