キッチンに残された足跡と日本家屋の恐怖物語
謎の足跡が導く家の過去と母子の怪異
会社勤めをしている佐藤美咲(さとう みさき)は、都心での忙しい生活に疲れ果てていた。残業続きの毎日、狭いワンルームでの孤独な夜。そんなとき、直属の上司である村井課長から思いもよらぬ言葉をかけられた。
「美咲さん、少し郊外に私の知り合いが手放した家があってね。空き家になっているんだ。通勤は少し不便かもしれないが、もしよければ住んでみないか?」
突然の申し出に美咲は戸惑った。だが、家賃もかからないという条件に惹かれた。狭く息苦しい暮らしから抜け出せるのなら——そう思ったのだ。
数週間後、美咲はその家へと引っ越した。古びてはいるものの、二階建ての広い家。畳の匂い、軋む床板、そして庭に咲いた季節外れの紫陽花。どこか懐かしい空気が漂っていた。
——しかし、最初の夜から異変は始まった。
夜中、喉が渇いてキッチンへ行った美咲は、床に残る黒ずんだ足跡に気づいた。濡れているように見えるが、触れても乾いている。足跡は玄関から続き、キッチンの真ん中で途切れていた。
「……おかしい、私じゃない」
足跡は大人の女性のものに見えた。恐怖を押し殺してその夜は布団にくるまり、灯りを消せぬまま朝を迎えた。
翌日、会社で村井課長にさりげなく尋ねてみた。
「課長、あの家……以前どなたか住んでいたんですか?」
「ああ、知り合いの奥さんが住んでいたらしい。旦那さんは単身赴任で、結局離婚したとか……」
「その奥さんは今……?」
「……急に姿を消したらしい」
それ以上は語られなかった。美咲の心臓は嫌な鼓動を刻んでいた。
その夜もまた、足跡は現れた。今度はキッチンから廊下を抜け、階段の途中で途切れている。美咲は震える足で階段を上がり、寝室の前に立った。
——ギシッ。
すぐ後ろで床が鳴った気がした。振り返ったが、誰もいない。
翌朝、足跡は消えていた。だが美咲の心から恐怖は消えなかった。
日が経つにつれ、現象は悪化していった。
録音機を仕掛ければ「……たすけて……」という女の声が記録され、夜中に目を覚ませば足跡の先に濡れ髪の女の影が立っている。
「いやっ……!」
悲鳴を上げても、影は消えず、ただじっと美咲を見つめ続けた。
次の日、同僚の由香に打ち明けた。
「ねえ、夜中に足跡が現れて……女の声まで聞こえるの。どう思う?」
「やめてよ……それって完全に幽霊じゃない。お祓いとか考えた方がいいんじゃない?」
だが、美咲にはお祓いよりも知りたいことがあった。——なぜ、その女性が足跡を残し続けるのか。
ある晩、足跡は冷蔵庫の前で止まっていた。恐る恐る扉を開けると、中は空っぽだった。だが扉の内側には小さな爪で引っかいたような跡が無数に刻まれていた。
「……子供?」
直後、背後で囁きがした。
「かえして……」
振り返ると、濡れ髪の女が立っていた。
——翌朝。
美咲は部屋の隅に小さな手紙を見つけた。古びた紙に震える文字で「子供を返して」と書かれていた。
以来、美咲は日ごとに憔悴していった。眠れば悪夢にうなされ、起きれば足跡と視線を感じる。
——ある夜。
再び足跡が現れた。だが今回は二つ。大人の足跡に混じり、小さな子供の足跡が並んでいる。濡れているのに乾かない、不自然な痕跡。
「子供……? まさか……」
美咲は恐怖に駆られながらも、家の過去を探る決心をした。
町の古老に話を聞くと、衝撃の事実を耳にした。
「あの家か……あそこには母子が住んでおった。旦那は外で働きっぱなしでな。母親は次第に精神を病んで、ある夜、子供と共に……」
老人の声が震えた。
「行方不明になったんじゃ。血の跡も何も見つからん。ただ、キッチンに濡れた足跡だけが残っておったそうな」
美咲は愕然とした。自分が見ていた現象は過去の再現だったのだ。
その夜、決定的な出来事が起きた。
眠っていた美咲の耳元で、女の声が囁いた。
「ここにいるのよ……」
飛び起きると、キッチンの床が濡れていた。そこには大人と子供、二人分の足跡が交差しながら廊下へと続いている。
美咲は導かれるようにその跡を追った。廊下を抜け、階段を上り、二階の空き部屋へ。扉を開けると、冷たい風が吹き抜けた。
部屋の隅に古い押し入れがあり、足跡はその中で途切れていた。
「……ここなのね」
震える手で襖を開けると、中には古びた玩具や子供の服が散らばっていた。ぬいぐるみの目が片方取れ、布団には染みのような跡が残っている。
その瞬間、押し入れの奥から冷たい手が伸びてきた。
「かえして……」
美咲は悲鳴を上げ、必死に襖を閉めた。だが、外に出ても足跡は廊下中に広がり、逃げ場を塞ぐように漂っていた。
——それから。
美咲は会社を辞め、家を出た。だがその後も奇妙な現象はつきまとった。新しい部屋のキッチンにも、時折黒ずんだ足跡が残るのだ。
「どこに逃げても……追ってくる……」
女の影は美咲の前に現れるたび、同じ言葉を繰り返した。
「——子供を返して」
そしてある夜、美咲は鏡越しに、自分の背後に立つ「母子の影」をはっきりと見てしまった。母親の目は虚ろで、子供は冷たい笑みを浮かべていた。
その瞬間、美咲の心は凍りつき、世界は暗転した。
——翌朝。
誰もいないはずの美咲の部屋のキッチンに、濡れた二組の足跡が残されていたという……。

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