毎日私を森へ連れて行く謎の存在と恐怖体験

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毎日私を森へ連れて行ってくれる人

眠るたび森へ呼び戻す正体不明の人影

私は都内で事務職として働く、ごく普通の会社員だった。
毎日朝早く満員電車に揺られ、オフィスでパソコンに向かい、上司に叱られ、疲れ果てて夜遅くに帰宅する。
部屋に入れば、狭いワンルームの空気はよどんでいるが、ベッドに身を沈めれば少なくとも安らぎを得られるはずだった。
しかし、ある日を境に、私は夜ごと異様な体験に巻き込まれていくことになる。

最初にそれが起きたのは、特に変わったことのない金曜日の夜だった。
残業で疲れ、シャワーを浴びて布団に潜り込み、深い眠りについたはずだった。
だが、ふと目を覚ますと、そこは自宅ではなく――森の中だったのだ。

「……え?」

頬を冷たい夜風が撫で、湿った土の匂いが鼻を突く。
辺りは背の高い木々に囲まれ、闇が重苦しく沈殿している。
私は寝間着のまま、裸足で苔むした地面に立っていた。
心臓が早鐘を打ち、理解が追いつかない。

夢だ、と思いたかった。だが頬をつねれば痛みが走り、夜露に濡れた草が足を冷やす。すべてが現実だった。

慌てて歩き出したが、森は深く、方向が分からなかった。
そして――ふと背後に気配を感じたのだ。

「……誰?」

振り向いたとき、木陰に人影が立っていた。
高い背丈、顔は闇に溶け込んで見えない。
その存在はじっと私を見つめていたが、やがて森の奥へと消えるように歩き出した。
足がすくむのに、なぜか抗えず、私はその後を追ってしまった。

――そして次に気づけば、私は自宅のベッドに横たわっていた。
朝の光がカーテン越しに差し込み、昨日の出来事はただの夢だったのではと思った。
だが、足は泥だらけで、寝間着には草の種がこびりついていた。
夢ではない。確かに私は、夜の森にいたのだ。




それからというもの、毎晩同じことが繰り返された。
眠れば森、目を覚ませば朝の自宅。
私は次第に寝ること自体が怖くなった。

会社でも集中できず、同僚に「顔色悪いね」と言われるほどだった。
しかし事情を説明できるはずもない。
「夜中に森に立たされてるの」なんて、正気を疑われるに決まっていた。

ついに私は、昔からの友人・美咲にだけ相談した。
彼女は霊感が強いと噂され、祖母から受け継いだ不思議な力を持っていると言われていた。

「……つまり、眠ると必ず森に連れて行かれるってこと?」
「うん……必ず同じ時間、同じ森。あの人影に導かれるの」
「夢じゃない気がするわね。きっと何かに呼ばれているんだと思う」

美咲は深刻な顔でそう告げ、お守りを渡してくれた。古びた布袋に梵字が刺繍されたそれは、触れると温もりを帯びているように感じられた。

「これを枕元に置いて寝て。必ずね」




その夜、私はお守りを枕元に置き眠りについた。
やはり目覚めたのは森だった。だがその夜は違っていた。
ポケットに忍ばせたお守りが震え、淡い光を放ち始めたのだ。

闇の中、人影が現れる。
月明かりに照らされ、その顔がはっきり見えた瞬間、私は息を呑んだ。

――顔は人間ではなかった。
土のように乾きひび割れた皮膚、真っ黒にえぐれた空洞のような目。
その口が大きく裂け、低く響く声が森にこだました。

「オマエヲ……モリニ カエス」

凍りつくような言葉。
帰す? どこへ? まるで私の居場所はこの森であるかのように。

その存在が伸ばした手は冷たく硬く、私の腕を掴んだ。強烈な力で引き寄せられ、視界が闇に沈んでいく。
私は必死に抵抗し、叫んだ。

「いやっ、帰りたくない!」

その瞬間、お守りが眩い光を放ち、影は苦しげに後退した。

気づけば私はベッドに戻っていた。だが手首には、強く握られた痕が紫色に残っていた。




「完全に狙われてるわね……」

翌日、美咲は私の腕の痣を見て顔をしかめた。

「昔、祖母から聞いたことがあるの。郊外に“迷い森”と呼ばれる場所があるって。そこでは行方不明者が後を絶たず、魂を森に閉じ込められるんだって」

「まさか……そこが、私が連れて行かれてる森なの?」

美咲はうなずいた。

「たぶんそう。あなたは“森に戻されよう”としてる。何かに選ばれてしまったのよ」

私は震え上がった。普通の生活が、一瞬にして崩れていくようだった。




数日後、私と美咲は実際にその森を訪れることを決意した。
電車とバスを乗り継ぎ、夕方には人里離れた山奥に辿り着いた。

森の入口には崩れかけた鳥居が立ち、しめ縄は朽ち果てていた。
そこに一歩踏み込むだけで、空気が重く変わる。

「ここ……私が毎晩立ってる場所だ」

私は震えながら言った。既視感が全身を貫き、吐き気すら覚えた。

夜が訪れると、やはり体は勝手に動き出した。
足が意思に反して森の奥へと進む。美咲が必死に腕を掴むが、抗えない。
そして、あの人影が再び現れた。

「マタ モドロウ」

その声に導かれ、私はずるずると引き寄せられていく。
しかし、美咲が叫んだ。

「あなたを渡さない!」

お守りが強烈な光を放ち、森の木々を白く照らした。
影は耳を裂くような叫び声をあげ、土に溶けるように消え去った。




私はその場で意識を失い、朝日が差し込む頃に目を覚ました。
鳥居の外に座り込む美咲が、安堵の表情で私を見守っていた。

「……終わったの?」
「一時的には。でも完全に切れたわけじゃない。あの存在はまだ、あなたを森に“戻す”つもりでいる」

その言葉に心臓が冷たく縮んだ。

あれ以来、夜に森へ連れて行かれることはなくなった。
しかし、安心はできない。
眠るたびに夢の中で、あの声が囁くのだ。

「マダ カエッテナイ……」

私は今も恐れている。いつか本当に、あの森に閉じ込められてしまうのではないかと。

毎日私を森へ連れて行ってくれる人――それは優しさでも導きでもなく、私を“失われた場所”へ引き戻そうとする者だった。

恐怖はまだ終わっていない。いや、むしろこれからが本当の始まりなのかもしれない。

次に眠る夜、私はまだ自宅で目覚められるのだろうか。それとも――。

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