廃墟の学校の地下室に潜む恐怖と消えた生徒の謎

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廃墟の学校の地下室

地下室に隠された廃墟校舎の怪異と女子高生の運命

放課後のチャイムが遠くで二度鳴り、薄紫の雲が校舎の窓を鈍く染めた。佐藤美咲(さとうみさき)は、制服の襟を指で整え、住宅街を抜けて町外れの丘へ向かった。
そこには十数年前に閉鎖された旧・第三中学校が、草に飲み込まれたまま眠っている。噂では、あの学校の地下室に入った者は戻らないという。美咲はその噂と、三ヶ月前に失踪した同級生・新田由紀(にったゆき)の行方が、一本の糸で結ばれていると信じていた。

「今日で終わらせる。夢の声の正体も、あの日の空白も」
美咲は自分に言い聞かせ、割れた昇降口から足を踏み入れた。廊下は湿り気を吸った木の臭いと、古いチョークの粉の匂いで満ちる。床板はひと踏みごとに悲鳴のような軋みを上げ、掲示板の端は三角にめくれ上がって風に震えた。

――コツン。
空き教室の暗がりで何かが落ちた音がした。懐中電灯の輪を向けると、古い名札が一つ、裏返って転がっている。油性ペンで書かれた文字――「二年三組 新田」。苗字だけ、名前がない。
「……ここで、何があったの」
胸の内で呟くと、遠くでかすかな合唱が聞こえた。誰かが朝の校歌を、テンポを外して歌っている。音程の崩れた声が、廊下の角から角へと跳ね返る。

美咲は音の根を追って進む。理科室の前で立ち止まったとき、ドアの小窓に白い手形がふっと浮かんだ。直後に消える。息が詰まる。
「わたし、帰らない」
彼女は小さく宣言して、階段の陰へ回り込んだ。そこに、鉄製の扉がある。錆びた南京錠は壊れていて、誰かが最近こじ開けた痕跡が残っている。取っ手を引くと、深い冷気が顔に触れた。

地下へ続くコンクリートの階段は、落ちた水滴で黒い斑点が広がっていた。ひと段降りるごとに、靴底が湿り、息が白くかすむ。
――トン、トン、トン。
一定のテンポで鳴る音が、下層から届く。木槌で遠い机を叩いているような鈍い響き。
「点呼?」
なぜかその単語が頭に浮かぶ。

最下段に着くと、薄闇の広場が口を開けていた。奥に黒板。中央に長机。その上に積まれた紙束。黒板には白いチョークで大きく「沈黙」と書かれ、その下に薄く消した文字が連なっている。
懐中電灯を近づけると、薄い文字列が浮かび上がった。「話した者は消える」。

机の紙束は、古びた点呼簿だった。表紙の端が剥がれ、指で押すと粉が舞った。めくると、縦書きの名簿に出欠を記す朱の印が並ぶ。そこに見覚えのある苗字がいくつもあった。
「新田、佐藤、藤川、早瀬……」
朱の印が押されていない欄に、黒い指の跡が点々とついている。最後のページをめくったとき、背中に息がかかった。
「――見つけた」
耳の穴の奥で囁かれた気がして、美咲は点呼簿を落とした。紙が床で弾む。懐中電灯の光がぶれる。その揺れた輪の中、長机の向こうにひとりの女子生徒が立っていた。古いセーラー服。前髪で目が隠れている。

「由紀?」
名前が喉から滑った。直後、少女はゆっくり顔を上げた。
目はある。だが、黒目がない。光を吸い込む井戸のような空洞。
「――静かに」
少女は口を開かずに言った。声は頭蓋の内側に直接響く。

美咲は一歩下がり、黒板を見た。いつの間にか文字が書き加えられている。「沈黙の点呼を開始する」。
――トン。
鈍い音が床下から鳴った。返事を示す合図のように。
「出席番号一番」
声が闇のあちこちから重なって聞こえる。誰もいないのに、何十人もの声。
「はい」
返事。
「出席番号二番」
「はい」
テンポは崩れない。校歌の拍子のように律儀に進む。やがて「出席番号十四番」の呼名が来た。
「新田由紀」
美咲の喉が震えた。闇の向こうで、小さく「はい」と響く。けれど、それは生きた声ではない。湿った壁の奥からしみ出すような返事。

「やめて」
思わず漏れた。直後、黒板の「沈黙」という字がギシ、と鳴った。チョークの粉が落ちる。由紀に似た少女が首を傾げる。
「静かに」
その一言で、天井の蛍光灯の死骸がカラカラと震え、扉の鍵がひとりでに閉まった。

美咲は唇を噛み、点呼簿を拾い上げた。ページの余白に、鉛筆で走り書きされたメモがある。「話すな。視線を合わせるな。叩く拍子に合わせて息をしろ」。下の行にもっと荒い字。「でも、名前を呼ばれたら返事をしろ。返さないと席が空く。空いた席は埋められる」。
「埋められる……誰で?」
問いは空転し、次の呼名が響いた。「出席番号十五番――佐藤美咲」。
喉に氷の針が刺さる。呼吸の仕方をメモの通りに整える。叩きのテンポに合わせて息を吸い、吐き、舌の裏を噛む。
「……はい」
音にならないほど小さく返すと、黒板の端で朱色の点が一つ灯った。

点呼は続く。名前、返事、叩き、沈黙。やがて最後の番号が呼ばれたとき、黒板の隅にうっすらと円形の輪が浮かんだ。それは日直の印のようにも、拘束の手枷のようにも見えた。
「……終わった?」
美咲が心の中でつぶやいた瞬間、長机の下から小さな手がすっと伸びてきて、彼女の足首に触れた。氷のように冷たい。
「立って」
由紀に似た少女が言う。
「点呼簿を戻して。空いた席を埋めなきゃ」
「誰の席?」
「今日、話した人」
少女の口角が、紙の切れ目のように上がる。黒板の端で白い粉が流れ、消したばかりの一行がにじむ。「話した者は消える」。その文字の真下の床に、湿った足跡がひとつ、またひとつと浮かんでいく。さっき確かに誰かがいた位置に向かって。

「わたし、もう帰る」
美咲は後退りした。扉は閉ざされている。鍵穴の奥で何かが眠り、呼吸をしているように微かに上下していた。鍵ではない。生き物だ。
「帰れないよ」
少女は黒い瞳孔のない目で微笑む。
「あなたは呼ばれた。名が印された。席はあなたで埋まった」
「嘘だよ。わたしは今日初めて来た。席なんて――」
反論しかけたとき、点呼簿の余白に別の字が滲み出た。「出席番号十五 佐藤美咲 記録:初回以前より在席」。
「初回以前?」
言葉が喉で転ぶ。少女は首を振る。
「ここでは、最初と最後の区別はないの。地下に降りた瞬間から、戻る前のあなたの席は用意されている」

――コン、コン。
叩きが二度鳴る。黒板の「沈黙」の一画が剥がれ、下から別の字が覗く。「侵入」。
「それ、隠してたの?」
少女は答えない。代わりに、長机の引き出しから細長い鍵束を取り出して卓上に置いた。金属が触れ合う音がやけに響く。
「出口はあるよ」
「あるの?」
「ただし、条件がある」
「条件?」
「あなたの名前を、ここに置いていくこと」
少女は点呼簿の末尾を指差した。そこだけ紙が新しい。罫線が白く、余白が広い。「寄贈名簿」。
「名前を置くと、どうなるの」
「声が静かになる。あなたは静かになれる。静かになれば、地上に戻れる」
「静かになるって……」
「二度と呼ばれないってこと」
少女はにっこり笑う。

美咲の喉が渇く。名前を置いていく――それは、名前とつながっている記憶や関係までも、ここに縫い付けるということか。彼女はゆっくり点呼簿から目を離し、部屋の隅に積まれた箱に気づいた。段ボールが湿って沈み、その側面に墨で「忘却」と書いてある。
箱の蓋を開ける。内側は真っ黒だ。底が見えない。指を近づけると、ぬるりとした冷気が絡みつき、脈の鼓動を数えるみたいに触れてくる。
「それに入れるの?」
「うん」
少女は無表情のまま頷く。
「みんな名前を入れて帰った。静かにしてくれた。だから、ここは平和」

「平和?」
美咲は吐き捨てるように繰り返した。
「由紀は、どうしたの」
少女は答えない。かわりに、足元の影が少し膨らみ、床に細い文字が浮かんだ。「ユキ」。片仮名ではない。漢字でもない。幼い手で刻んだような震えた線。
「返して」
美咲は少女を見据える。
「由紀の名前は、ここに置かせない。持って帰る」
「だめ」
少女は一段低い声で言った。
「名前はここで静かになる。あなたも静かに」
その瞬間、部屋の空気が圧縮された。耳がぎゅっと塞がれ、世界の音が後方へ押しやられる。黒板の「沈黙」が濃くなり、灰色から鉛色へ変わっていく。

――トン。
叩きが一度。合図だ。
「出席番号十五――佐藤美咲」
呼ばれた。さっきと同じ番号。返事をしないと席が空く。空けば、取られる。
美咲は舌の裏を噛み、息を合わせ、かすかな声で言った。
「……はい」
朱の点がまた灯る。けれど、同時に別の朱点が一つ消えた。消えた位置には、紙の焦げ跡のような黒い斑点が残る。
「誰が消えたの」
問いは壁に吸われた。少女は点呼簿を覗き込み、満足そうに頷いた。
「これで席は詰まった。出口の鍵は前のロッカー」

ロッカーは古い緑色。塗装が剥げ、斑のようになっている。錠前に鍵束を差すと、ぬめる手触りが指先に絡む。解錠。扉が開く。中には長い縄、蝋燭、そして古い手帳。
手帳を開くと、達筆とも下手ともつかない乱れた筆跡で、こう記されていた。「声を捨てる儀」。項目が並ぶ。息の数え方、拍の合わせ方、名前の切り方。最後に赤い字で大きく――「戻る者は、必ず誰かの名で代償を払え」。
「代償……」
美咲はページを閉じ、ロッカーの内側の鏡に目をやった。そこには自分の顔。しかし、名札の位置が空白だ。制服の左胸に、小さな空洞がぽっかり開いている。
「わたしの名札……」
床。さっき拾った「二年三組 新田」の名札が、いつの間にか「二年三組 佐藤」に変わっている。油性ペンの字が、書き換えられていた。
「返して!」
思わず叫ぶと、天井の蛍光管が一斉に割れ、ガラスの雨が降った。無数の鏡のかけらが床で音を立て、暗闇に細い反射の川を作る。
「静かに」
少女の声が、今度は厳しく鳴った。
「話したら消える」

美咲は唇を噛み、血の味で我に返る。叫ぶことはやめ、代わりに手を動かす。ロッカーから蝋燭を取り出し、点呼簿の横に立てた。火はつかない。マッチがないのではない。蝋が火を拒むのだ。
かわりに、ポケットから小さな御守を出す。祖母がくれた古社のもの。紐がほどけかけている。御守を蝋燭の芯に触れさせ、息を小さく掛けた。火はつかない。ただ、芯が白く光る。
その白が、黒板の「沈黙」に当たり、字の一画が溶けるように萎えた。
「……効く?」
少女の顔に初めて揺らぎが走った。
「それ、ここの名前じゃない」
「そう。山の神さまの名前も、海の神さまの名前も、わたしたちの名前とは違う」
美咲は御守を握り直す。
「ここに置くのは、わたしたちの名前じゃない。祈りのほう」

白い芯の光はわずかに強くなり、点呼簿の余白に落ちた影が薄くなる。美咲は机の引き出しから鉛筆を一本抜き、寄贈名簿の欄に書いた。
「名を置かない。代わりに――これは使わない(装飾禁止のため説明)祈りを置く」
鉛筆の先は震える。書けるはずのない言葉が、紙の上を滑る。「祈」。
途端に、床の影がざわつく。由紀に似た少女の目が、初めてはっきり見開かれた。空洞のはずの瞳に、うっすらと何かが映る。
「やめて。ここは静かなところ。祈りは音の種」
「音は、わたしのもの」
美咲は胸に手を当てる。心臓が、叩きとは違う拍で鳴っている。

――ドン。
叩きが乱れた。一瞬、テンポが崩れる。黒板の字が滲み、壁のひびに白い粉が詰まる。
「今」
美咲はロッカーから縄を取り、鍵束を掴み直し、扉へ走った。鍵穴の奥の生き物の呼吸が一瞬止まる。御守の白い芯を鍵穴に近づけ、息を合わせ、窪んだ金属に押しつける。
――カチ。
鈍い解放の音。扉が外へ向かってわずかに弾む。
「行かないで」
少女が初めて人間の声で叫んだ。床からせり上がる影の手が美咲の足を掴む。冷たい。しびれる。だが、美咲は足を振りほどき、扉を引き開けた。

階段は闇に沈んでいたが、先ほどより浅い。上から風が差し込み、草の匂いが混じる。
「由紀!」
振り返って呼ぶ。彼女は静かに首を振った。
「行って。名前は置かないで。わたしは――」
言葉が切れた。由紀の肩に、影の指が十本ほど食い込んでいる。
「わたしは、すでに静か」

美咲は階段を駆け上がる。途中で一度だけ、後ろを見た。黒板の「沈黙」が、最後の一画で揺れている。消えるか、残るかの境界で震えている。
扉の向こうに出ると、夜の空気が肺を満たした。草の匂いが強い。遠くで烏が二度鳴く。校庭の鉄棒が風で軋む。

それでも終わりではなかった。
昇降口に戻ると、掲示板に新しい紙が一枚貼られているのに気づく。白くて、角がまだ硬い。「臨時全校集会のお知らせ」。日付は十数年前。下には、小さな文字で――「沈黙の点呼」。
そして末尾に、赤いスタンプ。「欠席者 佐藤」。
「欠席……?」
彼女は紙を剥がそうとした。指先が触れた瞬間、紙はすっと薄くなり、指をすり抜け、掲示板に染み込んだ。

ポケットの中の御守がひとりでに温まる。取り出すと、白い芯は灰になっていた。灰は風に乗って散り、校庭の砂に紛れる。
そのとき、背後で足音。
「美咲?」
振り返ると、階段の陰から沙羅(さら)が顔を出した。青いリボン、見慣れた笑顔。
「よかった、間に合った。連絡しても返事ないし、ここに来たら開いてて……」
「来ちゃだめ」
美咲は駆け寄り、沙羅の手を掴む。
「ここは危ない。地下に――」
そこまで言って、彼女は言葉を飲み込んだ。沙羅の胸の名札に、違和感。黒い縁取りの中に白い文字。「二年三組 佐藤」。
「それ、どうしたの」
「え?」
沙羅は首を傾げる。
「だって、美咲の苗字――」
そこで沙羅は笑った。
「なに言ってるの、わたしたち双子じゃないよ? 佐藤はわたし。美咲は……新田でしょ」
世界が一センチ横にずれたような感覚。耳が圧迫され、鼓膜の裏で叩きの音が微かに蘇る。

「名前、置いてきたのは――」
沙羅は言いながら、ゆっくりと昇降口の暗がりへ視線を滑らせた。
「誰?」
彼女の目が、ほんの一瞬、空洞に見えた。

美咲は無意識に後ずさった。ポケットを探る。そこにあるはずの名札はない。代わりに、古い名札が一つ。油性ペンの字。「二年三組 ユキ」。
「由紀……」
声が零れる。
その瞬間、掲示板の紙が一斉に震え、すべての紙から細い糸のような黒い線が垂れた。糸は床に落ちる途中で形を変え、指になり、手になり、影になった。

「美咲、逃げよう」
沙羅が手を伸ばす。
「ここから離れよう」
「あなたは、誰?」
美咲は問う。
沙羅は笑う。いつもの、少し意地悪な笑い。だが、その笑いの奥に、地下で見た「静か」が混ざっている。
「わたしは、あなたの席」
そう言って、沙羅はのっぺりとした暗がりに溶け始めた。

校庭の鉄棒が、また軋んだ。烏が三度鳴いた。
美咲は名札「ユキ」を強く握りしめた。
「席は埋めさせない」
声はかすれた。それでも、はっきり音になった。
彼女は踵を返し、昇降口の階段を駆け下りた。もう一度。もう一度だけ。

地下への扉は開いていた。鍵穴の生き物は眠っている。叩きの音はない。代わりに、柔らかい鼻歌が響く。校歌でも子守歌でもない、聞いたことのない旋律。
広間に出ると、黒板は真っ白だった。書かれていたはずの「沈黙」も「侵入」も消え、ただ、真っ白。白の中心に、えんぴつの芯でついたような点が一つある。
点は、呼吸していた。

「由紀」
美咲は点呼簿の前に立ち、名札を置いた。
「返す。名前はここじゃない」
点がわずかに震え、黒板に細い線が伸びる。線はゆっくりと円になり、やがて文字になる。――「ユキ」。
「違う」
美咲は首を振った。
「ユキはここにいない。ユキは、わたしたちの隣の席にいる」
彼女は御守の灰を指で集め、黒板の下に軽く吹きかけた。灰は風に乗らず、黒板の下縁に吸い寄せられ、細い白のフィルムになった。
フィルムの上に、鉛筆の先で書く。「由紀」。

広間の空気がわずかに温かくなった。遠くで、水が落ちる音。
「美咲」
背後。
振り返ると、そこに立っていたのは、さっきの少女――ではない。制服は同じだが、目には黒目がある。涙の光が乗っている。
「遅くなって、ごめん」
美咲は笑おうとしたが、顔の筋肉が言うことを聞かなかった。
「帰ろう」
由紀は頷く。
「でも、静かに」
二人は手をつなぎ、階段を上がり始めた。叩きは鳴らない。黒板は白いまま、点も線も動かない。
扉の前で、由紀が一瞬立ち止まった。
「沙羅、知ってる?」
「え?」
「彼女は、ここで長い間、わたしたちの席を守ってくれてた」
言葉の意味を理解する前に、外の風が二人の頬を撫でた。

夜の空。星。鉄棒の軋み。
昇降口に出ると、掲示板の紙はすべて剥がれていた。床に散らばった紙屑は、風で踊り、砂に消えた。
美咲は由紀の手を握り直し、門へ向かった。草が足首を撫で、虫の声が耳を洗う。
門を出るとき、ふと振り返る。
校舎の窓に、ひとつだけ灯りが点いた。
誰かが見ている。

「沙羅?」
返事はない。
ただ、風の中で、点呼のテンポに似た心拍だけが、二人の胸で重なっていた。

――翌朝。
教室の黒板には、誰が書いたとも知れない白い文字が残っていた。「沈黙は、名前のためにあるのではなく、名前を返すためにある」。
出欠確認の時間、担任が名簿を読み上げる。
「新田」
「はい」
由紀の声は、昨日より少しだけ強かった。
「佐藤」
「はい」
美咲も返す。
そのとき、教室の後ろの掲示板で紙が一枚だけ震え、小さな朱点が灯った。
「……誰?」
誰も知らない。
ただ、休み時間、廊下の隅で烏が一羽、窓枠に爪を立てて二度鳴いた。
美咲はその音に合わせて、静かに息を吐いた。
祈りは、音の種。音は、ここにある。
そして、呼ばれたら――返事をする。

放課後、彼女は胸のポケットから古い名札を取り出した。油性ペンで書かれた文字。「二年三組 サラ」。
「今度は、わたしたちが守る番だよ」
そう囁いて、名札を机の中にそっとしまった。
窓の外では、雲がほどけ、細い陽が差し込んでいた。

夜、夢の中で美咲はもう一度、地下室の白い黒板の前に立った。黒板は静かで、真っ白で、中心に小さな点が一つだけ。
彼女は指でその点を押す。点は沈まず、指も汚れない。ただ、遠くの方角で、あの古い校歌の音程が、ほんの少しだけ正しくなった。
「聞こえる?」
風が答える。
――はい。
そして、誰にも消されない声で、彼女たちは呼ばれたら返事をする。
名前を置いていかないために。
名前を連れて帰るために。
それが、わたしたちの、沈黙の使い方。
(終)

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