地下鉄で遭遇した白い幽霊と終わらない旅
幽霊と一緒に地下鉄に乗る
夜の東京、終電を逃した俺——佐藤陽介(さとう ようすけ)は、会社の飲み会の帰り道に地下鉄へと足を運んだ。午前0時を過ぎていたが、浅草線のホームにはまだ人の気配があった。
「あぁ……早く帰って風呂入りたいな」
独り言をつぶやきながら、俺はホームのベンチに腰を下ろした。すると、背後からひんやりとした風が吹き抜けた。
「……? 風なんて吹く場所じゃないのに」
不思議に思い振り返ると、そこには一人の女性が立っていた。白いワンピースを着ており、髪は長く、顔は伏せていて表情が見えなかった。
「こんばんは……」
何となく声をかけると、その女性は静かにうなずいた。どこか儚げで、存在感が薄い。
――その時、電車が滑り込んできた。終電だ。車両はほとんど空いていた。
俺が乗り込むと、さっきの女性も一緒に乗車してきた。彼女は俺の斜め前の席に腰を下ろし、相変わらず顔を伏せていた。
電車が動き出すと、急に車内の蛍光灯がチカチカと点滅し始めた。まるで古いホラー映画のワンシーンのようだった。
「……また電気系統の不具合か?」
そのとき、車内アナウンスが不自然に途切れた。
「次は……◯◯駅……あ、あ、あ……」
「壊れてるな、こりゃ」
俺は苦笑したが、女性は微動だにしなかった。
やがて、車内に他の乗客の姿が見えなくなっていることに気づいた。たしかに2、3人はいたはずなのに、気がつけば俺とその女性だけ。
「……なんだよ、気味悪いな」
次の駅に着いても、誰も乗ってこない。降りる人もいない。そして、奇妙なことに同じ駅名が何度も繰り返された。
「次は、霧ヶ谷(きりがや)駅です」
「次は、霧ヶ谷駅です」
「……おいおい、さっきも霧ヶ谷じゃなかったか?」
スマホで現在地を確認しようとしたが、圏外。時間も午前0時のまま止まっていた。
そのとき、斜め前の女性がゆっくりと顔を上げた。
「……あなたも、閉じ込められたの?」
その声は、まるで風のように冷たく、震えるように響いた。
「……な、なんのことですか?」
彼女の顔を見た瞬間、全身に鳥肌が立った。目がない。黒い穴が二つ、深く開いているだけだった。
「ここは、生者が入ってはいけない場所。地下鉄の影。あの日、私はここで死んだの」
俺は慌てて立ち上がり、ドアを開けようとしたが動かない。
「やめて。逃げようとしても、出口はもうないの」
「ちょ、ちょっと待ってくれ! ふざけるのもいい加減に——」
そのとき、彼女の身体が透け始めた。服の模様が車内の壁を通して見えるほどに。
「私も、最初はあなたのように驚いたの。でも、気づくと、ここにいたの。今夜、あなたも選ばれたのよ」
「選ばれたって……何の話だ! 俺はまだ死んでない! 生きてるんだ!!」
「そう思いたいのね。みんな、そうだったわ。でもね……見て」
彼女が指差した先には、車内の窓に映る俺の姿——いや、そこに映っていたのは“誰もいない”空席だった。
「……う、嘘だろ……」
俺は自分の手を見る。だが、それはうっすらと透けていた。
「飲み会の帰り、あなた、階段で足を滑らせたわ。誰も気づかなかった。音楽を聴いてた人たちは、君の最後の悲鳴なんて聞こえなかった」
「そ、そんな……じゃあ俺は……」
車内の照明が一瞬だけ完全に消え、すぐに再点灯した。気づくと、女性はいなかった。
そして、アナウンスが流れた。
「……終点、地獄ヶ原(じごくがはら)駅です」
その声には、確かにあの女の幽霊の声が混じっていた。
電車が止まった。扉が開く。そこに広がっていたのは、黒く沈んだ無音のトンネルと、無数の幽霊たち。俺を待っていたように、一斉にこちらを見た。
「ようこそ、影の地下鉄へ」
俺は、逃げられなかった。もう、戻る駅などなかった。
——でも、それは終わりではなかった。
何度も同じ路線を走らされ、霧ヶ谷駅を繰り返し通るたび、俺は幽霊たちの会話を聞くようになった。彼らのほとんどは、自分が死んだことにすら気づいていない。
「あの時、事故さえなければ……」
「彼を待っていたのに……」
「子どもを迎えに行く途中だったの……」
悲しみと未練だけが、この列車を走らせているのかもしれない。
ある日、女性の幽霊が再び俺の前に現れた。
「あなた、まだ望みがあるわ」
「望み……?」
「この電車から解放されたいなら、自分の“死”を認めて、許されなければならない。誰かに見つけてもらって、思い出してもらうの」
「見つけてもらう……?」
「あなたの魂がどこかにまだ留まっている。見つけてくれる誰かが、必ず現れる。その時、列車は止まるの」
俺はわからないまま、ただ時を過ごした。どれほど時間が経ったのか、今ではわからない。
だがある晩、車内がざわめいた。誰かが“俺の名前”を呼んだ気がした。
「佐藤……陽介……」
暗闇の中から、小さな光が現れた。それは懐中電灯のようだった。そして、誰かが電車の床下を覗き込んでいた。
「いたぞ! ここに人が落ちてる!」
——それは救助隊の声だった。
彼らはようやく、俺の死体を見つけてくれたのだ。俺は確かに、地下鉄の階段の隙間から落ちて、即死していたらしい。
その瞬間、電車が止まった。見たこともない“朝焼け色”の駅に。
「おめでとう。あなたはここから出られるわ」
幽霊の女性が優しく微笑んだ。今度は、その顔に目があり、涙を流していた。
「あなたのおかげで、私も思い出せたの……私も、あの時、助けを待っていたの」
俺は彼女に一礼し、朝焼けの駅のホームへと足を踏み出した。すると、胸の奥が温かくなり、まばゆい光に包まれた。
——次に目覚めた時、病院のベッドの上だった。どうやら、心肺停止していたが、奇跡的に一命をとりとめたのだという。
あの女性の幽霊は、俺に「死」を見せ、そして「生」を教えてくれたのだ。
今でもたまに思う。
——もし、あのとき彼女と出会わなければ、俺はあのまま地下鉄の影に囚われていたかもしれない。
だから今日も、終電間際の浅草線には近づかないようにしている。あの白いワンピースの女性に、再び会わないために——。

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