見えるはずのない兆候が私を追い詰める夜
悪い兆候が見える
「最近、何かがおかしいの」
夜の10時を過ぎた頃、由美はスマホの画面を見つめながら、小さな声で呟いた。
東京郊外にある彼女のマンションは、見た目こそ現代的だったが、どこか古びた雰囲気を漂わせていた。
その日も、エレベーターの中で突然灯りが消え、警報音が一瞬だけ鳴った。だが、数秒後には何事もなかったかのように元通りになった。
「またか……」
彼女は小さくため息をついた。
それは2週間前から始まっていた。夜になると決まって異音がする。隣の部屋から壁を叩くような音がするのに、調べても誰も住んでいない。
ある晩、彼女の同僚の沙織が遊びに来た。
「この部屋、ちょっと寒くない?冷房つけてないのに……」
「わたしも感じてた。でも多分、古い建物だからじゃないかな」
「ねえ、ベランダの方、誰か立ってなかった?」
由美は顔を青くして振り返った。だがそこには誰もいない。
「……いないよ。気のせいでしょ」
沙織は笑って誤魔化したが、それ以来彼女は二度と遊びに来なかった。
翌朝、由美は出勤途中にマンションの掲示板で「ご注意ください」という紙を見つけた。
『最近、夜間に不審者が目撃されています。窓やベランダの施錠を徹底してください。』
「まさか……」
ただの空き巣か、そう思い込もうとしたが、不安が胸を押し潰していく。
その夜、寝室の窓を締め切って寝ていたはずなのに、朝起きるとカーテンが開いていた。窓の鍵は内側からしっかり掛けられたままだった。
「誰も入れるわけないのに……」
彼女は勤務先の同僚、北川に相談することにした。
「ねえ、北川くんって霊感とかある?」
「え?まぁ少し。何かあったんですか?」
「最近、部屋で変なことばかり起きてて……」
由美がこれまでの出来事を話すと、北川は急に真剣な顔になった。
「……それ、ただの霊じゃないかもしれない」
「どういうこと?」
「“兆候”って知ってます?悪いことが起きる前に、何かしらの異変が現れるっていう考え方です。古い霊能者の記録に書いてあったんだけど、その“兆候”を無視すると、取り返しのつかないことになるって」
その言葉に背筋が凍った。
「じゃあ、どうすればいいの?」
「その部屋、いつから住んでるんですか?」
「2年前から……でも何もなかったのに」
北川はスマホで何かを調べ始めた。
「……この住所、5年前に一家心中があったって……娘が行方不明になってる。遺体も見つかってない」
由美は一瞬、呼吸を忘れた。
「うそ……その娘、今も……?」
夜、由美は震えながら家に帰った。
電気を点けた瞬間、テレビが突然ついた。砂嵐の中で、女の子のような影が一瞬だけ映った。
「もう無理……」
彼女は部屋を出ようとしたが、玄関のドアが開かなかった。
後ろから、誰かの息遣いが聞こえた。
「かえして……わたしのばしょ……」
由美は振り向いた。そこには、顔がぼやけた少女が立っていた。だが、それよりも異様だったのは、少女の目だった。目の奥に、もう一つの顔があった。
「う、うわあああああ!」
翌朝、管理人が異臭に気づいて通報し、部屋に警察が入った。中には誰もいなかった。だが、部屋の壁一面に、赤いクレヨンでこう書かれていた。
「みたな……みえると、おわり」
その数日後、北川も姿を消した。
会社では、「辞めたらしい」と噂されているが、連絡は取れないままだ。
1ヶ月後、同じマンションの新しい住人がブログにこう書いていた。
『最近、部屋の窓が朝になると開いてるんです。しかも夜になると、子供の声が……。「ここ、わたしのばしょ」って。』
この“兆候”は、終わっていなかった。
それは、見える者にしか現れない。
そして、見えた瞬間から、それは「逃れられない結末」へと変わるのだ。
――数週間後、失踪した由美の姉・美咲が、警察署に訪れた。
「妹が行方不明なんです。でも、このマンションの管理人が……“そんな人知らない”って言って……」
警官が調べた記録には、由美という名前の住人の履歴が存在しなかった。
「本当にここに住んでいたんですか?」
「何言ってるんですか!?メールもLINEも残ってます!」
だが、彼女がスマホを見せようとした瞬間、画面は真っ暗になり、次の瞬間、一枚の写真が浮かび上がった。
それは、あのマンションの部屋で、壁に囲まれて座り込んでいる由美の姿だった。
その後ろには、笑う少女の影が写っていた。
警官は顔色を変えたが、スマホを再起動すると、その写真は消えていた。
「悪い兆候」という言葉が、警官の脳裏に残った。
彼はその夜、自宅の風呂場で、自分の影が動いたように見えた。
振り返っても誰もいない。だが、鏡の中には、赤いワンピースの少女が立っていた。
兆候は、感染するのだ。見た者から次へ、次へと。
今あなたがこれを読んでいるなら、既に“兆候”は……あなたの後ろに。

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