封じられた能面が呼び覚ます舞の怨念

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能楽の面

能楽の面に魅入られた男の末路

「先生、これ……本当に返さなくていいんですか?」
舞台裏の暗がりの中で、俺は年老いた能楽師から木箱を手渡された。
「ああ、それはお前に受け継がせる。昔、師匠から託されたものでな」

中を開けると、そこには古びた能面——女面が一つ、静かに収められていた。
能面には表情がないはずなのに、その女面はまるで泣いているようにも、微笑んでいるようにも見える。

「……名前とかあるんですか?」
「“泣女(なきおんな)”と呼ばれていた。決して夜中に眺めるな。それだけは、守れ」
先生はそう言って俺の手を強く握った。まるで何かを封じ込めるように。

——だが、その忠告を、俺は守らなかった。

その夜、酒を飲みながら俺はうっかりと木箱を開けてしまった。蝋燭の揺れる灯りの中、能面はじっと俺を見返していた。
「……やっぱり、泣いてるように見えるな」

ふと、部屋の隅から音がした。ギシ、ギシ、と木の軋む音。
「……風か?」
そう思った瞬間、俺の背後にひんやりとした空気が流れた。
「……あなた……誰?」
女の声だった。確かに、すぐ背中のすぐ後ろから聞こえた。

振り向いても誰もいない。だが、能面の位置が……変わっていた。
「動いた……?」
翌朝、目覚めると能面は再び木箱の中に戻っていた。俺が入れた記憶はない。

その日から、奇妙な現象が続いた。稽古場に誰もいないのに、背後から拍子木の音がする。夜になると、能面の女の声が囁く。「そこではない」「間違ってる」

俺は舞の練習に没頭するほど、彼女の声を聞くようになった。
「もっと腰を落として。そう、それでいいの」
彼女の声は、やがて俺を導く声へと変わっていった。

本番の日、俺は“葵上”のシテとして舞台に立った。顔には、あの“泣女”の面。
だが、舞が進むにつれ、観客席の様子がおかしくなっていく。ざわめき、動揺、そして……悲鳴。
「誰か、後ろにいるぞ……!」
俺の背後——舞台の暗がりに、長い黒髪の女が立っていたという。だが俺には、何も見えなかった。ただ、面の内側が……濡れていた。

その夜、控室で先生が俺を待っていた。
「……お前、見ただろう。泣女の本性を」
「あれは……一体……」
「あの面には、かつて能楽師に裏切られ、舞台上で焼身自殺した女の魂が宿っている」
「彼女は、舞台に立ちたかった。ただ純粋に……でも、叶わなかった」
「あの面を被った者は、彼女の未練を背負う。最後まで演じきれなければ……魂を喰われる」

俺は恐怖に震えた。だが、その一方で……あの舞台上の高揚感が忘れられなかった。
「……もう一度、被りたい」
先生の顔が青ざめる。
「陽介、お前……それは彼女の思う壺だ」
だが遅かった。俺の心は、あの“泣女”に魅入られていた。

翌週、俺は無断で能楽堂に入り、ひとりで舞台に立った。照明も音もない静寂の中、能面を顔に当てた瞬間——視界が、赤く染まった。そして、無数の観客が見えた。全員、顔がない。

「舞え」
彼女の声がした。「最後まで、私の代わりに」
俺の体は勝手に動き、舞を始めた。何の音もないのに、拍子が、笛が、鼓が聞こえる。

「やめろ……これは、俺の舞じゃない……!」
心で叫ぶが、体は止まらない。——そして、舞が終わった時。能面が、俺の顔から外れなかった。

「おかえりなさい」
鏡に映る自分の顔は、もはや俺ではなかった。面が皮膚と同化し、目だけが涙を流していた。

数日後、俺の姿を見た者はいなかったという。だが、夜の能楽堂でひとりでに舞う影を見た、という噂だけが残った。

そして現在——

ある若い見習いが、古い木箱を舞台裏で見つけた。
「先生、これ……開けていいですか?」
老いた能楽師は、震える声で言った。
「決して夜中に開けてはならん。決して……」
だが、忠告は、また破られるだろう。“泣女”は、次の舞手を待っているのだから。

***

それから月日が流れ、能面研究家・望月涼子は古民家の蔵を整理していた。
彼女は東京の大学に所属する文化財修復士であり、古道具屋から譲り受けた木箱を調査していた。

「この面……不思議ね。年代の割に保存状態が異様に良いわ」
涼子は白手袋で“泣女”を取り出した。瞬間、部屋の照明がチカチカと明滅した。
「……静電気? 変ね……」

その晩、涼子の家に異変が起きた。
棚の本が勝手に崩れ、風もないのに障子が揺れる。
そして深夜、夢の中に能面の女が現れた。

「あなたでは……足りない。まだ、舞えない……」
涼子は息を詰めて目を覚ました。汗びっしょりだった。

翌朝、大学の教授に面を見せると、彼は顔を強張らせた。
「これは……封印されたはずの面だ。まだ残っていたのか……」

「どういう意味ですか?」
「その面は、戦前に神社で“祓い”を受けてから、行方不明になっていた。持ち主は全員——消息を絶ったんだよ」

涼子は背筋が凍った。
「では、これを……どうすれば……」
「決して誰にも見せるな。誰にも、触れさせるな」

だが、その夜もまた女は夢に現れた。
「次こそ……演じてくれるでしょう?」

“泣女”の目が、確かに涙を流していた。

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