東京の格安アパートに現れた白い顔の訪問者
真夜中の部屋の訪問者
それは、東京の片隅にある古い木造アパート「白菊荘」に引っ越してきた夜のことだった。
大学進学のために地方から上京してきた藤井涼(ふじいりょう)は、格安で見つけたそのアパートの203号室に住むことになった。家賃は相場の半額ほどで、築年数は古いものの、部屋は意外に綺麗だった。ただ、大家の老女が引き渡しのときに、妙なことを言ったのが気にかかっていた。
「夜中の三時には、絶対に玄関を開けてはいけませんよ」
涼は軽く笑って返したが、その言葉はどこか本気のように聞こえた。
引っ越し初日の夜。荷解きを終えてベッドに横たわると、都会の雑踏が遠く聞こえ、風が古い窓を揺らす音が耳に残った。
深夜、ふと目を覚ますと、時計の針はちょうど午前三時を指していた。
——コン、コン。
玄関のドアを叩く音が響いた。
(……え?)
こんな時間に誰が?
寝ぼけていた意識が一気に冴える。ドアの向こうから、かすかに女の声が聞こえた。
「……ひらいて……さむいの……」
涼はゾッとした。呼び鈴ではなく、ゆっくりと、まるで骨ばった指で叩くような音。そして、女の声は冷たく、感情が感じられなかった。
(気のせいだ。隣人が何かしてるだけだ)
そう思って布団を被ったが、ノックは止まなかった。
——コン、コン、コン。
五分、十分、十五分……。時計の針は三時二十分を示していた。ノックは続いている。
堪えきれず、涼は玄関に近づいた。のぞき穴を覗くが、誰もいない。ドアの外は真っ暗だった。
「……気のせい、だよな」
だがその瞬間、ドアの隙間から何かがスッと入ってきた。黒い髪のようなもの。
「ッ……!」
涼は反射的に後ずさった。もう一度のぞき穴を覗くと、今度はそこに白い顔がぴったりと張り付いていた。
目は空洞のように黒く、唇は裂けており、何かを囁いている。
「ひらいて……ひらいて……ひらいて……」
ガチャガチャ!
ドアノブが激しく揺れ始めた。涼は叫び声を上げそうになりながら、後ずさって部屋の奥に逃げた。
しかし——音は突然、止んだ。
気づけば、部屋は静寂に包まれていた。心臓の鼓動だけが、耳の奥で響いている。
次の日。
涼は不動産会社に電話をかけたが、「夜中に誰かが訪ねてくる?そんな話、聞いたことありません」と言われた。
その夜も、午前三時にノックの音が響いた。
「……ひらいて……」
耐えきれず、涼は警察に通報した。しかしパトカーが到着した時には、誰の痕跡も残っていなかった。警官も「近くで風の音か何かでは?」としか言わなかった。
そして三日目の夜。涼はついに決心した。
——このままじゃ、精神がおかしくなる。
彼はスマホの録画アプリを起動し、玄関の内側に向けてセットした。午前三時。やはりノックはあった。
「ひらいて……あなた、だけ、みてる……」
録画していることに安心していた涼だったが、次の瞬間、スマホが突然シャットダウンした。
「うそだろ……」
ドアの方を見たとき、涼は凍りついた。
ドアの内側に、何かの手形が浮かび上がっていた。濡れているように見える黒い痕。その手形は一つではなかった。何十という手形が、天井まで続いていた。
「……もう、ムリだ……」
彼は翌朝、荷物も持たず部屋を飛び出し、近くのビジネスホテルに逃げ込んだ。
ホテルのベッドでようやく落ち着きを取り戻したとき、ふとスマホが震えた。画面には、録画が勝手に再生されていた。
そこには、玄関の内側に立つ自分の姿——そして、その背後にゆっくりと現れる白い顔。
録画の中の涼は、それに気づいていない。
白い顔は涼の背後で止まり、こう囁いた。
「ひらいてくれて……ありがとう」
映像は突然、砂嵐のようになり、画面が真っ黒になった。
涼はスマホを取り落とした。
その瞬間——ホテルの部屋のドアがノックされた。
——コン、コン。
「……あけて……さむいの……」
涼は声も出せず、ベッドの隅に縮こまった。だが、ノックは止まらない。
時計を見ると、午前三時を過ぎていた。
彼は、ようやく悟った。
——これは部屋の呪いじゃない。
——「訪問者」は、もうどこにいても、彼を追ってくるのだ。
翌日、涼は古い図書館へ向かった。過去の新聞記事を調べると、「白菊荘203号室」で十年前に自殺した女性の記事を見つけた。
“女子大生が三日連続の幻聴と幻覚の末、午前三時に首を吊った——”
その女性の名前は、「高原紗英(たかはらさえ)」。
記事には、奇妙な記述も残されていた。
『自室の壁には黒い手形と、「さむい」と書かれた血文字があった』
涼は背筋が凍るのを感じた。その名には覚えがあった。紗英は涼が通う大学の、数年前の卒業生だった。
その晩、彼は大学の学生課で紗英の卒業論文を探し出した。
タイトルは、「都市伝説としての『午前三時の訪問者』」
そこにはこう記されていた。
『午前三時に現れる“訪問者”は、過去にその部屋で死んだ者の孤独な残響である』
『開けてしまえば、自分が次の“訪問者”となる』
——開けてはいけない。
だが、映像の中の自分は……もう、開けてしまっていた。
翌朝、ホテルの従業員が通報した。
203号室の浴室で、青年の変死体が発見された。部屋の天井には、黒い手形がいくつもいくつも重なっていたという。
そして数週間後、新たな入居者が「白菊荘203号室」に越してきた。
引っ越しの日、大家の老女がこう告げた。
「夜中の三時には、絶対に玄関を開けてはいけませんよ」
今夜もまた、どこかの部屋で——
——コン、コン。
静かに、誰かがドアを叩いている。

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