誰もいない部屋で枕が赤く染まる理由
毎朝枕が血で染まる
「また……血だ」
朝、目を覚ました綾乃(あやの)は、濡れたように赤黒く染まった枕を見つめて、呟いた。
それは一度や二度の話ではなかった。ここ数週間、毎朝目覚めると、枕にはどこからともなく流れた血が付着していたのだ。
「でも、どこも痛くないし…鼻血でもないし……」
鏡の前で顔をじっくり観察しても、出血の痕跡はない。髪の毛の生え際、耳の裏、口元──すべて異常なし。
東京から長野県の祖母の家に移り住んで一ヶ月。田舎の静けさに安らぎを感じていたのも束の間、綾乃はこの異常な現象に心を蝕まれていた。
「……ばあちゃん、昔ここで何かあったの?」
食卓で味噌汁をすする祖母に何気なく尋ねると、一瞬その手が止まり、顔がこわばった。
「……あの部屋に泊まってるの?」
「うん。和室の奥の、仏壇のある部屋」
祖母は何も言わず、立ち上がり、押し入れから古い風呂敷包みを取り出してきた。中から出てきたのは、一枚の黄ばんだ日記帳だった。
「あんたの母さんが高校のときに書いてたものよ」
綾乃は驚いた。母は10年前、交通事故で他界していたが、家ではほとんど母の話をしなかった祖母が、なぜ今になって見せるのか。
日記には、ところどころかすれた文字でこう書かれていた。
《朝起きると、枕が血で濡れている。痛みはない。夢の中で女が枕元に立っていた。》
ページをめくるたびに、その記述は続いていた。
《女は赤い着物を着ていて、顔がよく見えない。何かを探しているようだった。》
《夢の中で「返して」と言われた。私は何も盗っていないのに。》
「……うそでしょ……」
綾乃は手の震えを止められなかった。
「母さんも……同じこと、体験してたの?」
祖母は無言でうなずき、ため息をついた。
「あの部屋は、あんたのお母さんが一番嫌がっていた場所なの。けど、あんたが来るまでは何も起きなかった…」
その晩、綾乃は意を決して録画アプリを枕元にセットし、眠りについた。
深夜3時過ぎ、アプリは自動で録画を開始した。
画面には、寝返りを打つ綾乃の姿。その背後に、ふいに何かが映り込む。
障子の影に、ぼんやりと人の形をした黒い影。
それはゆっくりと綾乃の枕元に近づき、顔を覗き込むように屈む。そして、無音のまま、綾乃の耳元で何かを囁いた──。
翌朝、綾乃は再び血の付いた枕と、耳元の生温かさに目を覚ました。
アプリの映像を確認すると、そこには確かに「何か」がいた。
「……誰……なの……?」
恐怖を押し殺して映像を見返すと、一瞬だけ、女の顔が画面に映った。顔の右半分は焼け爛れ、片目は潰れていた。
その唇は、何度も「カエシテ……」と形作っていた。
「返すって……何を……?」
その夜、綾乃は再び祖母に問い詰めた。
「この家で、誰か死んだの?隠してるでしょ」
祖母は沈黙ののち、ついに語り出した。
「昔ね……ここに奉公に来ていた少女がいたの。戦後すぐで、生活が苦しい時代だった。その子は…ある晩、仏間で何かを盗んだと疑われて……」
「それで?」
「無理に問い詰めた村人たちが、彼女を……殺してしまったのよ」
綾乃の背筋に冷たい汗が流れる。
「その子は…何を盗んだって?」
「誰も本当に確認しなかった。ただ、『お守り』がなくなってたって…」
「お守り……」
綾乃は仏壇の引き出しを開け、手探りで探すと、木の箱に入った古い布製の小さなお守りを見つけた。
それは妙に湿っていて、裏には墨で「ヨモド」と書かれていた。
「これ……返さなきゃ……」
綾乃は夜の山を越え、祖母に教えられた旧墓地へと向かった。
人の足も踏み入れないような藪の奥に、苔むした無縁仏がぽつんと並ぶ一角があった。
その中のひとつ、小さな石碑にだけ、赤い布が巻かれていた。
「ごめんなさい……返します……もう、私を追わないで……」
綾乃がそっとお守りを石碑の前に置いた瞬間、風がぴたりと止まり、周囲の空気が変わった。
―― カサッ
背後に何かが動いた気配。振り向くと、そこには、赤い着物の少女が静かに立っていた。
焦げた右頬、つぶれた片目。まさに、あの映像の女だった。
「……かえしてくれて、ありがとう……」
彼女はそう言って、ふっと空気に溶けるように消えた。
翌朝、綾乃が目を覚ますと、枕は乾いていた。血の跡も、耳元の熱もなかった。
日記帳の最後のページには、見たことのない文字が一行だけ増えていた。
《かえった。もうだいじょうぶ。ありがとう。》
それ以降、綾乃のもとに血染めの枕は現れなかった。だが、彼女の夢には今でもときどき、あの少女が微笑んで立っているという。
その微笑は、もう恨みではなく、感謝に見えた──
……しかし、すべてが終わったわけではなかった。
その翌月、祖母が急死した。死因は不明。
遺体の枕元には、小さな血痕と赤い布の切れ端が残されていた。
さらに奇妙なことに、綾乃がかつて捧げたはずのお守りが、再び仏壇の引き出しの中に戻っていた。
「なんで…戻ってきてるの……?」
綾乃は恐怖を押し殺し、それを再び封印しようとしたが、今度は手に取った瞬間、耳元で囁き声がした。
「つぎは、あなた」
綾乃は、再びあの枕の上で目を覚ます。そこには、新たな血の染みが広がっていた。
彼女の眠りは、まだ終わらない。
──毎朝、枕が血で染まる。

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