死んだ彼と気づかずに暮らし続ける私の日常

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私の彼氏はまだ自分が死んでいることに気づいていない

私の彼氏はまだ自分が死んでいることに気づいていない

「ねえ、また夢を見たの」
夕暮れ時、薄暗い光がアパートの壁を赤く染めていた。
僕の名前は陽介。3ヶ月前に引っ越してきたこの町は、静かで空気が澄んでいる。だが、僕には秘密がある。

僕の彼女、澪(みお)は……もう死んでいる。

でも、彼女自身はそれに気づいていない。

「どんな夢だった?」
ソファに座る澪は、髪を撫でながら遠くを見ていた。
「湖のほとりに立っていたの。誰かが私を呼んでたの。でも、足が動かなかった……」
「……誰かって、男だった?」
「うん。見えなかったけど、懐かしい声だった気がする」

僕はその話を聞きながら、胸の奥が締めつけられるようだった。
澪は2ヶ月前、交通事故で亡くなった。
僕が運転していた車に、トラックが突っ込んできた。

事故の瞬間、記憶は曖昧だった。ただ、目覚めたとき、僕の隣に澪はいた。血も傷もなく、まるで何も起きなかったかのように。

「ねえ、陽介……最近、外に出たくないの。なんだか外が怖いのよ」
「無理に出なくてもいいよ。ここにいれば安全だから」

僕は澪の手を握った。彼女の手は冷たかった。いつもより、ずっと冷たい。

その夜、夢を見た。
暗いトンネルの中を僕と澪が歩いていた。だが、途中で彼女が止まり、後ろを振り返る。
「戻らなきゃ……私、まだ帰ってない」
「帰るって、どこに?」
澪は答えず、霧の中に消えていった。

目を覚ますと、彼女はいなかった。
部屋には誰の気配もなく、冷たい空気だけが漂っていた。

その日から、澪の様子が変わり始めた。
話しかけても、ぼんやりとした返事しか返ってこない。テレビも見ないし、食事もしない。

「陽介……私、本当はもう……」
「言わなくていい」
僕は彼女の言葉を遮った。聞きたくなかった。

——だって、もし彼女が自分の死を思い出してしまったら、僕の前から消えてしまうかもしれない。

そんなある日、町の古本屋で見つけた一冊の本が、すべてを狂わせた。

「魂は、死を受け入れることでこの世から解放される。だが、自分が死んだことに気づかぬ者は、誰かの記憶にすがり続け、留まり続ける」

僕は震えながら本を閉じた。
——澪は僕の記憶に縛られて、この世に残っているのか?
——それとも、僕が彼女を無理に引き止めているのか?

その晩、澪が言った。
「ねえ、今日、知らないお婆さんに話しかけられたの」
「え?外に出たの?」
「ううん……夢の中。でも、すごくリアルだったの。その人が言うの。“もう帰ってきなさい”って」

僕は黙った。
澪の顔に浮かぶ不安と混乱。それは、現実を少しずつ思い出している証拠だった。

翌日、彼女はいなかった。
部屋には彼女の香水の匂いがかすかに残っていたが、どこにもいなかった。

数日が経ち、僕は毎晩のようにあの湖の夢を見るようになった。
湖の向こう岸に澪が立っている。僕に手を振っている。だが、その顔は見えない。

——君はもう行くんだね。

そう思ったとき、背後で声がした。
「陽介……ありがとう。でも、本当は——」

そこで目が覚めた。
汗びっしょりで、呼吸が苦しかった。だが、不思議と心は穏やかだった。

その日から、澪の気配は消えた。
本当に、もう成仏したのだと思った。

だが——すべては終わっていなかった。

一週間後、僕のもとに一通の手紙が届いた。
宛名はなぜか、僕の名字ではなく「霧島 澪」宛てだった。
中には、事故の日付と写真。そして、そこにははっきりと書かれていた。

《死亡者:霧島 陽介(25歳)》

手が震えた。
——僕が、死んでいた?

「うそだ……僕は……」

手紙を落としたその瞬間、鏡の中に澪の姿が見えた。
彼女は静かに微笑んで、こう囁いた。
「ようやく、気づいたのね……陽介」

僕は叫んだ。
「待ってくれ!じゃあ、あの時——僕が死んで、君が残ったのか?いや、違う……!」

記憶が流れ込んでくる。
あの事故の夜、僕の視界が真っ赤に染まり、澪の声が遠ざかっていった。

そうだ。生き残ったのは——澪だった。
僕は彼女を離したくなくて、ここにとどまっていたのだ。

「ありがとう、澪。君が生きていて、よかった」

僕は静かに目を閉じた。

そして——霧の中へと、歩き出した。

その後、澪は結婚し、家庭を持ったと風の噂で聞いた。
だが、彼女の部屋の片隅には、今も僕の写真が飾られているという。

それが、彼女の記憶の中に、まだ僕が存在している証だと信じている。

——私はもういない。けれど、彼女の中にはまだ、僕がいる。

***

ある晩、見知らぬ青年がアパートの前に立っていた。彼の名前は匠(たくみ)、澪の夫だった。

「……ここが、あの人が住んでた部屋?」
彼は玄関に立ち尽くしながら、手に持った古い写真を見つめた。そこには澪と僕——陽介の姿があった。

「君が……陽介さん、ですか?」
その瞬間、僕の姿が鏡に映った。
彼は僕が見えるようだった。

「澪は……今もあなたのことを時々話します。夢の中で会っていると」

僕は何も言えなかった。ただ、静かに微笑んだ。

「ありがとう。澪を守ってくれて」

匠が帰った後、部屋の空気が少しだけ温かくなった気がした。
ようやく、僕も彼女から自由になれる。

でも——心のどこかで願っている。
いつかまた、彼女の夢の中で会える日が来ることを。

永遠にさよならじゃない。
それが、僕と彼女の——最後の約束。

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