家が記憶と共に森へ変わる夜の怪異
家が森になるのを見る
「信也、おばあちゃんの家、売るって話どうなった?」
「ああ、まだ決まってないよ。あの場所、なんか妙な噂があるって不動産屋が…」
妹の結衣は、不安そうに眉をひそめた。「あの家、ずっと空き家だったもんね。行ってみようよ、一度ちゃんと見ておきたい」
兄妹は、山間の小さな村にある祖母の家へと向かった。祖母が亡くなってから三年、その家には誰も住んでいなかった。
古びた木造の家は、苔むした屋根とひび割れた壁を晒しながら、静かに山の中に佇んでいた。家の周囲には、いつの間にか小さな木々が生い茂り、まるで森に飲み込まれているようだった。
「うわ…森みたいになってるじゃん…これ、道どこ?」
「前はこんなじゃなかったのにな。草もこんな高くなかった」
信也は懐中電灯を取り出し、かつての石畳を辿って玄関へ向かった。扉を開けると、かび臭い空気と共に、かすかな土の匂いが漂ってきた。
「……床、湿ってる?」
「いや、なんか…土みたいな感触…」
足元を照らすと、床板の一部が腐って剥がれ、そこから草のようなものが生えていた。
「ちょっと…これ、本当に家の中? なんで草が…」
「おかしいな、まるで下から地面が押し寄せてきてるみたいだ」
兄妹は居間へと進んだ。そこも様子がおかしかった。畳の間からはツタが這い上がり、天井の梁にはキノコのようなものが点々と生えている。まるで、家そのものが自然へと還ろうとしているかのようだった。
「誰かが放置したってレベルじゃないよ、これ」
「結衣、ここ、もう人が住める状態じゃない。早く写真だけ撮って、帰ろう」
しかしその時、背後でギィ…と扉が開く音がした。
「誰かいるの?」
返事はなかった。だが、確かに廊下を歩く足音が聞こえた。
「こんなとこに、他に誰が?」
「幽霊とか、やめてよ…」
兄妹は恐る恐る音のする方へ向かう。しかしそこには誰もいなかった。ただ、土間の奥、使われていないはずの部屋の障子が、わずかに開いていた。
信也が静かに障子を開けると、中には一人の老婆がいた。背を向け、何かを見ていた。
「……おばあちゃん?」
結衣が声をかけると、その老婆はぎこちなく振り返った。顔は確かに祖母に似ていたが、その目は空洞で、口元には黒い苔がこびりついていた。
「おかえり…」
ザザ…と、部屋の床が波打つようにうねった。草が這い、木の芽が瞬く間に芽吹いていく。
「信也!出よう!早く!!」
二人は悲鳴を上げて玄関へと走った。しかし扉は閉まっており、外からは木の枝が絡みついていた。
「なんで!?なんで出られないの!?」
後ろから、ポタ…ポタ…と水滴のような音が聞こえる。振り返ると、廊下の天井から滴る液体が黒い根となって床に広がっていた。
「この家…生きてる…」
「バカな…そんなわけ…!」
その時、壁が崩れ、中から大きな幹が伸びてきた。幹には人の顔のようなこぶがいくつもあり、そのうち一つが目を開けた。
「返して…私の家を…」
それは祖母の声だった。
「ここは…もう人の場所じゃないのよ…」
信也は結衣の手を引いて、裏口を探し、勝手口へ向かう。だがそこもすでに木の根に覆われていた。
その時、結衣が転んだ。
「いたっ…足が、引っかかった…」
地面から伸びる蔦が、彼女の足首に絡みついていた。
「くそっ!」
信也は必死で蔦を引きちぎり、妹を抱えて玄関へ向かう。だが家全体が軋みをあげて揺れ、壁が音を立てて閉ざされた。
「もう遅いのよ…ここは森になるの…私の記憶で…」
祖母の声が家中に響いた瞬間、信也の目の前に一枚の古い写真が落ちた。それは祖母が若かりし頃、庭で家族と撮った写真だった。
庭にはまだ木は生えていない。だがよく見ると、写真の隅に一本の苗木が写っていた。それは、今の家を覆う巨大な幹の根元と同じ場所だった。
「……最初から、ここには何かいたんだ」
信也は懐中電灯を床に叩きつけ、火花が飛んだ。すぐに畳に火がつき、蔦が燃え上がった。
「逃げるぞ結衣!このままだと俺たちも家にされる!」
火は一気に燃え広がり、根を焼き、壁を焦がした。玄関の扉がバタンと開く。
「今だ!」
二人は暗い森の中へと飛び出した。後ろでは、家がゆっくりと崩れ、木々に飲まれていく音がした。
翌朝、警察と共に戻った時、そこには家などなかった。跡地には一本の巨大な木が生えており、その根元には古い畳の破片が埋もれていた。
「家が…森になってる…」
信也は呆然と呟いた。結衣も黙ってそれを見つめていた。
「この木…私たちを見てる気がする…」
「あの目…幹の中にまだあるんだ…おばあちゃんの…」
その後、その地には誰も近づかなくなった。あの木は夜になると、まるで人の声で「おかえり」と囁くのだという。
だがそれだけではなかった。
一ヶ月後、同じ村の家がまた一軒、草に覆われ始めた。床から苔が生え、壁にひびが入り、そして、木の芽が…。
「これは…連鎖してるのか…?」
信也は調査を始めた。古文書によれば、この土地は江戸時代、ある女巫によって“記憶を保つ森”として封じられた場所だった。死者の思念が土に染み込み、生きた家を作り出す。それは森へと変わり、やがて村全体を飲み込む。
「じゃあ、おばあちゃんだけじゃない…?」
家々に残された記憶、後悔、怒り…それが森に吸収され、形となって広がっていく。
信也はふと思い出す。祖母が生前よく言っていた言葉。
「家はね、人が作るもんじゃないの。人の心が作るものなのよ」
そして今、その“心”が家を超え、森となって彼らを取り込もうとしている。
今でも、村の入り口に立つと風がこう囁く。
「おかえり――」
そうして、その声を聞いた者は、二度と戻ってこないという。

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