亡き弟が夜ごと訪れる家の秘密
私の弟は幽霊です
「あれ……また夢か……」
目を覚ました瞬間、私は枕元に立つ弟・悠真(ゆうま)の姿を見た。
「姉ちゃん、起きて」
彼の声は懐かしく、柔らかかった。だが次の瞬間、私は思い出した——悠真は三年前、死んだはずなのだ。
あの日の事故は、今でも鮮明に覚えている。
家族で出かけた山道、突然飛び出してきた鹿を避けようとした父のハンドル操作ミスで車は崖下に転落した。母と私は助かったが、悠真は……
「どうして……今ここに……?」
私がそう呟いたとき、悠真はにこっと笑って、こう言った。
「姉ちゃん、忘れ物を届けに来たんだ」
その瞬間、目の前が真っ暗になり、気がつくと朝になっていた。夢だったのか、それとも——
◆
大学に通いながら一人暮らしをしている私、沙耶(さや)は、その日から毎晩同じ夢を見るようになった。
夢の中で悠真は笑って私をどこかへ誘おうとする。
「一緒に来て、姉ちゃん」
最初は夢だと思っていた。だが、現実の生活にも異変が起き始めた。
机に置いていた筆記具が勝手に動き、部屋の隅からは幼い笑い声が聞こえる。
洗濯物を干したベランダには、見覚えのある小さな靴の足跡がついていた。
ある夜、幼馴染の瑞樹(みずき)が泊まりに来た。
「沙耶、最近顔色悪いけど……大丈夫?」
「うん、ちょっと変な夢見ててさ……」
話の流れで、悠真のことを話すと、瑞樹は顔を青ざめた。
「え、それって……“呼び戻し”かもしれない」
「呼び戻し?」
「死んだはずの家族が現れて、生きてる人間を“あの世”に連れて行こうとするの。昔からの伝承でさ、最初は夢に出てきて、だんだん現実に影響してくるって」
私は笑ってごまかそうとしたが、心の奥に不気味なものが残った。
その夜、瑞樹が先に寝て、私はひとり台所でお茶を飲んでいた。
ふと廊下に気配を感じて振り向くと、また悠真がいた。
「姉ちゃん、早く来て。瑞樹ちゃんも一緒に来れるよ」
その瞬間、背筋が凍った。悠真の目が黒く、深い闇のように光っていた。
「……悠真、それ、どういう意味?」
「家族は……一緒じゃなきゃだめでしょ?」
私は息が詰まり、瑞樹を起こしに走った。
だが、布団には誰もいなかった。代わりに、床には濡れた足跡が並んでいた。
◆
次の日、私は実家に戻り、母に相談した。
母は黙って聞いたあと、押し入れの奥から一冊の古びた日記帳を取り出した。
「これは、あんたの祖母の日記。昔、似たようなことがあったみたい」
ページを開くと、そこには“弟が帰ってきた”という記述が繰り返されていた。
最終ページにはこう書かれていた。
『迎えに来る弟を、振り返ってはいけない。呼ばれても、返事をしてはいけない』
私は背筋が凍った。
その夜、また夢を見た。
——いや、もはや夢ではなかった。
暗い林の中、私は一人歩いていた。霧が立ち込める中、前方に小さな背中が見えた。
「……姉ちゃん……」
声が聞こえる。
だが私は思い出した。
振り返ってはいけない。返事をしてはいけない。
「……いっしょにいたい……寂しいよ……」
涙がにじんだ。懐かしい声だった。愛しい弟だった。
だが、私は立ち止まり、目を閉じた。
その時——背後から、獣のような唸り声がした。
「……返して……返せぇ……姉ちゃん……返せよぉお!」
私は逃げ出した。林の中を必死で走り、ふと目が覚めた。汗で全身が濡れていた。
◆
それから数日、悠真の姿は見えなくなった。
私は精神科も訪ねてみたが、「抑圧されたトラウマが幻覚として現れることはよくある」と説明された。
だが私は、幻覚だけとは思えなかった。
大学の図書館で“呼び戻し”について調べていたところ、驚くべき記録を見つけた。
江戸時代の記録に、兄を亡くした姉が“夜な夜な弟に呼ばれ、魂を奪われた”と記されていた。
その姉の名は——沙代。私と同じ「さや」と読む名前だった。
偶然か、それとも因縁か。
◆
その晩、私は久しぶりに夢を見なかった。
だが、朝起きると、枕元には折り紙の鶴が置かれていた。
悠真がよく折っていた、右の翼だけ少し曲がった鶴。
私は思った。
——もしかしたら、悠真は本当に“呼びに来た”のではなく、“見守っている”のではないか。
私の心が不安と後悔に満ちていたからこそ、彼の魂が現れたのではないか。
そう考えると、少しだけ涙がこぼれた。
◆
一週間後、私は実家の裏山にある墓地に足を運んだ。
悠真の墓の前に座り、線香を灯した。
「悠真、会いに来てくれてありがとう。もう、大丈夫だよ」
その瞬間、静かな風が頬を撫でた。まるで誰かが優しく触れてくれたようだった。
——その日以来、夢の中でも彼は現れなかった。
でも私は、いつでも彼を感じている。
夕暮れ時の風の中に、図書館でページをめくる音の中に。
そして、ひとりじゃないと感じられる夜に。
「ありがとう、悠真。私は、前に進むよ」
彼が遺した小さな鶴を、私は部屋の窓辺に飾っている。
きっと、いつかまた会える——今度は、微笑みの中で。

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