診療所に現れた怨霊の手が奪う静寂の夜
切断された手の幽霊の恐怖:古びた診療所に潜む悪夢
東京から少し離れた山奥に、小さな村があった。地図にも載っていないその村には、今では使われなくなった古びた診療所がぽつんと残されていた。
「ねえ、あの診療所って本当に出るって噂、知ってる?」
大学生の奈緒は友人の翔とともに夏休みを利用して、怪談の取材に来ていた。
「出るって、なにが?」翔は笑いながら尋ねた。
「“切断された手の幽霊”って言うんだって。昔、あの診療所で働いていた看護婦が行方不明になって、それ以来、誰かの手に触られるって噂が出始めたの」
「手だけの幽霊?まさか」翔は呆れたように言いながらも、どこか興味を惹かれている様子だった。
二人はそのまま診療所の建物へ向かった。建物は木造で、今にも崩れ落ちそうなほど朽ち果てていた。ドアを開けると、カビと薬品の混ざったような臭いが鼻をついた。
「…誰もいないよね?」奈緒が不安げに聞くと、翔は軽く笑った。
「大丈夫だよ。もし出てきても、写真に撮ってやるさ」
二人は懐中電灯を片手に建物の奥へ進んでいった。
廊下の壁には昔のカルテが貼られており、所々に手術道具が散乱していた。手術室と思しき部屋に入ると、埃だらけの手術台が中央に置かれていた。
「…ここだね、噂の現場って」
そのとき、奈緒が何かに触れられたような感覚に背筋を震わせた。
「…今、誰かに触られた」
「え?」翔が振り向くが、そこには誰もいなかった。
「…気のせいじゃない?」
「ちがう、はっきり手の感触がした。冷たくて、指先が細くて…」
翔が冗談めかして言う。「もしかして、その“幽霊の手”なんじゃ?」
しかし、奈緒の表情は冗談で済ませられるものではなかった。彼女の右手首には、青白い指の痕のような跡が残っていた。
その夜、二人は村の民宿に泊まった。深夜、奈緒が突然目を覚ました。何かが彼女の手を掴んでいるような感覚で。
「…翔?」
しかし隣には誰もいなかった。
ふと布団の下から何かが這い出してきた。白く細長い、人の手だった。
「やめてッ!」
奈緒は布団を蹴り飛ばし、部屋を飛び出した。
翌朝、翔は奈緒の様子がいつもと違うことに気づいた。
「大丈夫?顔色悪いよ」
「…昨夜、あの手が出てきた。夢じゃない」
翔は最初は信じられない様子だったが、奈緒の手首の痣がさらに濃くなっているのを見て黙り込んだ。
村の古老に話を聞きに行くと、思いがけない話を聞かされた。
「あの診療所でな、昔“天城ナツコ”という看護婦がおってな…医者との関係を隠すために、ある日急に姿を消したんじゃ」
「失踪…ですか?」
「いや、ほんとは医者に手首を切られて殺されたらしい。嫉妬の果てにな」
奈緒と翔は震え上がった。
「以来、誰かがその女の手に触られると、ナツコが“自分の手を返せ”って取り憑くと言われとる」
民宿に戻ると、奈緒は鏡を見ながら呟いた。
「私の手が…誰かに乗っ取られていく気がする」
翔は決意したように言った。
「もう一度、診療所へ行こう。手がどこかにあるなら、それを供養して終わらせよう」
その晩、彼らは村の神社で神主に相談し、塩とお札をもらった。神主は何度も「決して怒らせてはならぬ」と警告した。
再び診療所へ。懐中電灯の光が震える手元で揺れる。薄暗い地下室があることに気づき、おそるおそる降りていく。
地下には古い医療記録と瓶詰のホルマリン標本が並んでいた。その中のひとつに、人の手が浮かんでいた。
「これだ…」
奈緒が瓶に近づくと、急に部屋中の電球が明滅し始めた。どこからか女性のすすり泣く声が響く。
「返して…返してよ…私の手…」
標本の瓶が突然倒れ、手が奈緒に向かって這い寄る。翔が塩を取り出し、手に向かって投げつけると、手は苦しむように震え、霧のように消えた。
その瞬間、奈緒の手首の痣も消えていた。
「…終わった、のかな?」
奈緒が呟くと、翔も力なく笑った。
「たぶん、ね。けど、もう怪談の取材はやめようか」
二人は村を後にした。だが、東京に戻った数日後、奈緒の部屋に届いた小包の中には、一枚の写真が入っていた。そこには診療所の地下室で撮られたと思われる写真が写っていた。奈緒の背後に、見覚えのない“もう一本の手”が写り込んでいた――
さらに奇妙な出来事は続いた。奈緒のスマホには夜中に知らない番号から着信があり、応答すると無言のまま、「…かえして…」という微かな女性の声が聞こえてきた。
翔も同じ夢を見ていた。冷たい手に喉を締められる夢。二人は再び会い、もう一度神主の元を訪ねた。
「終わったと思っておったか…」神主は深いため息をつき、棚の奥から古びた巻物を取り出した。
「魂の一部があの場に残っておる限り、怒りは収まらん」
「じゃあ、どうすれば?」翔が問うと、神主は厳かに答えた。
「封印の儀式をするしかない。だが、それには“その手”を燃やす必要がある」
驚いたことに、あの標本の手はまだ村の保管室に移されていた。奈緒と翔は再び村を訪れ、夜、神主とともに神社の炉で儀式を行った。手が火に包まれると、辺りは突然風が吹き荒れ、空から女の叫び声が響いた。
「かえして!かえしてよぉぉお!」
だが、炎が完全に手を包んだ瞬間、全ての音が静まり返った。奈緒の心に、なぜか穏やかな感覚が流れた。
その後、奈緒の元に奇妙な現象は起きなくなった。
しかし、彼女の手首には、ずっと薄く白い線が残っていた。まるで、誰かがずっと彼女の中にいた証のように――。
そして、誰にも言わなかったが、奈緒は時々、無意識のうちに右手で何かを掴む動作をしている自分に気づくのだった。
まるで、“その手”がまだ動いているかのように…。

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