廃村の鏡に囚われた記憶と狂気の旋律

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狂気の淵

狂気の淵

「あの村には行ってはいけない。何があっても――」
祖母の警告を無視して、大学生の直樹は一人、長野県の山奥にある廃村・綾野村へと向かった。
噂では、昭和末期に村全体が一夜にして消滅したとされる謎の村。かつて精神病院が存在し、異常な実験が行われていたという伝説まである。

「なんでこんなところに興味あるんだ?」
友人の亮が問いかけたのは一週間前の飲み会だった。
「ゼミのテーマでさ、都市伝説の実地調査って面白いだろ?綾野村、知ってるか?」
亮は顔をしかめた。「あそこ、やばい噂ばっかだぞ。戻ってこなかったやつもいるって」

直樹はその警告すら、好奇心でかき消した。
彼はカメラと録音機を持ち、村のあったとされる場所へと入っていった。
標識のない山道を歩くこと数時間、薄暗い林の奥に、崩れかけた鳥居が見えた。

「ここか……」
鳥居をくぐった瞬間、空気が変わった。
湿った空気に鉄の匂い、耳鳴りのような音が耳の奥で響く。
「録音、始めよう」

彼はマイクを取り出し、音を拾い始めた。だが、録音機から漏れ聞こえたのは――
「……かえして……」
「え?」
誰もいないはずの村の廃屋から、女のすすり泣きが録音されていた。

直樹は躊躇いながらも、音のする方へ向かった。
崩れかけた木造の建物。かつては診療所だったのか、壁には「綾野精神研究所」の文字がかすかに残っていた。

中に入ると、床は軋み、カビの臭いが鼻をついた。
「……かえしてよぉ……」
再び、はっきりと聞こえる女の声。
「誰かいるのか!?」

直樹が声をかけると、壁にかかった鏡が突然ガタリと揺れ、ひびが走った。
その鏡の奥に、白い病衣を着た長髪の女が映っていた。
「えっ……」
振り返っても誰もいない。鏡だけに、その女が立っている。

「あなた……新しい患者さん?」
女の口が、鏡の中で動いた。
直樹は動けなくなった。

「待っていたの。あなたみたいな、やさしい人を」
「ち、違う……僕は調査で来ただけで……」
鏡の中の女は微笑んだ。
「大丈夫、すぐに治療してあげる。ここではみんな、"治る"のよ」

直樹は震えながら鏡に背を向け、部屋を飛び出した。
しかし、出入口だった場所はなぜか塞がれていた。
「なんだよこれ……どこだ、出られるところは……!」

彼が扉を無理やり開けると、その先には異様な光景が広がっていた。
廊下の両脇には、鉄格子で閉ざされた病室。
その中に、顔の判別もつかないほど黒ずんだ患者たちが立ち尽くしている。
「たすけて……たすけて……」
彼らの呻き声が、直樹の精神を蝕んでいく。

「こんなの、現実じゃない……夢だ、これは夢だ……!」
だが、どこまで逃げても、どこを曲がっても、廊下は終わらない。

やがて彼は一室に辿り着いた。そこには診察台と、血のついた器具が並んでいた。
壁には無数の手形、床には何かを引きずったような跡。
そして、またもや鏡。

直樹は叫んだ。
「やめろ!もう帰るんだ、ここから出してくれ!」
鏡の中の女がまた現れ、やさしく語りかけた。
「あなた、もう気づいてるでしょう?本当は……あなたが、ここにいたってこと」

「……なにを言って……」
「あなたは昔、ここで治療されていたの。忘れたの?"あの夜"のことを」

頭の奥に、鋭い痛み。
記憶の底から、幼いころの断片が浮かび上がる。
暗い部屋、泣き叫ぶ母、拘束された父。そして――叫ぶ自分。

「僕は……患者だった……?」
女は頷いた。
「でも、あなたは逃げた。だから他の患者たちが……怒っているの」
彼女の背後から、病衣を着た無数の人影が現れる。
「おまえも……ここに残れ……」

直樹は叫びながら廊下を再び走る。目の前に、うっすらと光が見える。
「出口だ……!」

身体を投げ出すようにして外へ飛び出すと、そこは……見慣れた山道だった。
鳥居が、朽ちた姿のまま、彼の背後に立っている。

「助かった……のか?」
彼は確認するように録音機を再生した。
ノイズ混じりの音声の中に、確かに自分の声、そして女の声が混ざっている。
「あなた、もう戻れないわよ」

その言葉を最後に、録音機は突然ショートして火花を散らした。

それから数日後――
直樹は大学にも、家にも戻らなかった。
彼の部屋では、真っ赤に染まった鏡が見つかり、録音機だけが机に置かれていたという。

録音機を再生した警察官が最後に聞いた音は、こうだった。
「次は……あなたの番」

その後、綾野村周辺で失踪者が増えた。
共通していたのは、全員が都市伝説に関心を持っていたこと。

そして、あるYouTuberが都市伝説検証動画を投稿した。
「綾野村に実際に行ってみた」と題されたその動画は、再生数を伸ばしたが、投稿者はその後行方不明となった。
彼の最後の映像には、画面の端に一瞬、白い病衣の女が映っていたという。

専門家によると、綾野精神研究所は実在していたが、昭和54年に火災で全焼したとの記録がある。
だが、当時の記録には一つ奇妙な記載があった。
「火災発生時、患者全員が消失。遺体確認不能」

それから40年以上経った今も、村跡地は地図に載っていない。
ただし、付近の林道には、時折手書きの紙が木に貼られているという。
「かえしてよぉ……」

あなたがもし山道で古びた鳥居を見つけても、決してくぐってはいけない。
鏡の中で誰かが待っているかもしれないから。

そして最後に、ひとつだけ忠告を。
深夜、ふと鏡を覗いたとき、あなたの背後に白い病衣の女が映っていたなら――
それは、もう逃れられない。
狂気の淵に足を踏み入れた証拠なのだから。

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