鏡の中から覗く歪んだ微笑みの影
誰かの視線
「ねえ、今……誰か見てなかった?」
真夜中の山道で、沙織がぽつりとつぶやいた。
「は?なに言ってんの。誰もいないじゃん」
隣を歩く友人の千佳がスマホのライトを高く掲げ、周囲を照らしたが、木々の隙間からはただ冷たい闇が押し寄せてくるだけだった。
沙織と千佳は、心霊スポットで有名な「白峰隧道(しらみねずいどう)」に向かっていた。大学の怪談研究会の課題で「地元に伝わる未解明の怪異現象」を調査するためだ。
「だってさ、ずっと誰かに見られてる気がするの」
「気のせいだって。幽霊なんているわけ――」
千佳の言葉が途中で止まった。彼女のスマホが突如ブラックアウトしたのだ。
「え?電池まだあるのに……」
真っ暗な中、風の音が妙に耳に触る。
――カサ、カサ……。明らかに人の足音のような音が、後ろの方から近づいてくる。
「千佳……いまの音……」
「走ろう!!」
二人は叫ぶようにして山道を駆け出した。だが、後ろからついてくる足音も同時に速くなる。誰かが、確実に、彼女たちを追っていた。
やっとの思いでトンネル前の開けた場所にたどり着いた時、足音は唐突に止んだ。
「……はぁ、はぁ……いなくなった?」
「いや、まだ、どこかに……」
その時、二人の目の前のトンネルが不気味に光った。中は真っ暗なはずなのに、淡い青白い光がうっすらと内側から漏れている。
「……入るの?」
「ここまで来たし、行こう。証拠が必要でしょ」
沙織は震える手でスマホを再起動し、録画モードにした。
トンネル内は驚くほど静かで、湿った空気が肌に張りつく。壁には古びた落書きや錆びた水の跡が広がり、ところどころに何かを引きずったような黒い線が続いている。
「……ねえ、あの落書き……『みてるぞ』って書いてない?」
「本当だ……何個も……全部同じ筆跡……」
天井を見上げた沙織は、声を飲んだ。そこには小さな手形がびっしりとついていた。まるで、誰かが天井を這っていたように。
「出よう……ここ、ヤバい……」
だが、出口の方から足音が響いた。しかも、何人もの。
「なんで……!?誰か入ってきた?」
スマホのライトを向けても、そこには誰もいなかった。だが、確かに“視線”を感じる。自分たちの行動を、どこかから見られている感覚。
「もうだめ、引き返そう!」
走って戻ると、出口のすぐ手前で、壁の影から何かが“這い出してきた”。
白い顔、黒い髪、眼球が異常に大きく開いた女だった。
「見た……?」
低くてかすれた声が耳元で囁かれる。
「見たんでしょ……あたしを……」
沙織はその場に尻もちをつき、震える声で叫んだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい!」
女はふっと姿を消した。二人はトンネルを抜け出し、転げるようにして山を下りた。
翌日、沙織は自宅で録画データを確認した。画面の奥、トンネルの暗闇の中に、無数の目がこちらを向いていた。
そして最後のフレーム。沙織がスマホを手にしてカメラを下げた一瞬、画面の右隅に「女」が写っていた。まるで、沙織のすぐ隣でこちらを見ていたかのように。
その日から、沙織は視線を感じ続けるようになった。電車の窓に映る背後。夜中にテレビが勝手につく。部屋の鏡に、自分ではない誰かの姿が一瞬だけ映る。
千佳も同じだった。ある日、彼女は意味不明なメッセージを何通も送りつけてきた。
「見られてる」
「あの女、まだそこにいる」
「私の目から見てるの」
そしてその翌日、千佳は自宅マンションのベランダから転落した。遺書はなかった。ただ、彼女の部屋の鏡にはこう書かれていた。
「みてるぞ」
沙織は精神科に通うようになったが、症状は悪化した。医師は「統合失調症の可能性」と言ったが、彼女自身はわかっていた。――あの視線は、現実なのだ。
一ヶ月後、沙織の家族が彼女の部屋で倒れていた彼女を見つけた。床には大量のコピー紙が散乱していた。すべてに、同じフレーズが繰り返し書かれていた。
「誰かが、ずっと、見てる」
その後、心霊スポットとしての白峰隧道は閉鎖され、立ち入り禁止となった。だが、深夜になると、近くの村人の家ではテレビが勝手に点いたり、鏡が割れる現象が続いた。
そして、あるYouTuberが非公開で投稿した映像の中に、こう記されていた。
「トンネルには入っていない。外から撮っただけ。でも……映ってた」
動画の最後、カメラが風景をパンした瞬間。草むらの影に、白い顔の女がじっとカメラを見つめていたという。
――誰かの視線は、いまこの瞬間も、どこかからあなたを見つめているかもしれない。
それから三ヶ月後、沙織の通っていた大学に奇妙な出来事が起き始めた。図書館の防犯カメラに、在学生でない女性の姿が繰り返し映るようになったのだ。
首を傾け、何かを探すような様子で静かに歩くその女性は、図書館の鏡の前で必ず立ち止まり、鏡を見つめ続けたという。
ある日、研究会の後輩である佐久間が沙織のノートPCを開いた際、フォルダの中に「視線ログ」と名付けられた動画群を見つけた。
そこには、彼女が部屋のカメラで夜通し撮影していた映像があった。
動画には一見、何も映っていない。ただし、よく見ると、夜中の3時を過ぎたころ、部屋の隅の鏡の中だけ、微かに誰かが“動いて”いた。
そしてラストの動画には、カメラの真横に、女の顔が唐突に現れた。
その女はこう囁いた。
「みたね……また、ひとり……ふえた……」
以来、佐久間もまた“視線”を感じるようになったという。
「今も……画面の向こう側から、誰かが俺を見てるんだ」
彼はそう言い残し、研究会の活動から突然姿を消した。
あなたがこの物語を読んでいる今も、もしかしたら――誰かが、あなたの背後で静かに、微動だにせず、こちらを見つめているのかもしれない。

コメントを投稿