夢の中の霊
夢の中の霊
「最近、毎晩同じ夢を見るんだ」
大学生の秋山亮太は、親友の真由美にそう打ち明けた。
真由美は心配そうに顔をしかめ、「どんな夢?」と尋ねた。
「古びた日本家屋の中にいるんだ。畳が湿ってて、柱は黒く煤けてる。奥の座敷には女の人が正座してるんだけど……顔が見えない。髪が長くて、白い着物を着てるんだ」
「それって……霊とかじゃないよね?」
亮太は肩をすくめて笑ったが、その笑いはどこか不自然だった。
夢は毎晩、少しずつ内容が変わっていく。最初はただその女が座っているだけだったが、ある夜、女がぽつりと口を開いた。
「……返して」
低く、掠れた声だった。
「な、何を返せばいいんだ?」
亮太は夢の中でそう尋ねたが、女はそれ以上何も言わず、ただじっと彼を見つめる。
いや、「見つめる」と感じるだけで、その顔は髪に覆われていてまったく見えないのだ。
「それ、最近から?」
真由美は興味半分、不安半分で問いかけた。
「一週間くらい前からかな。でも昨日の夜、夢の最後に俺の部屋が出てきたんだ」
「え……」
「夢の中で女が立ち上がって、古い家から出て行くんだ。で、どこか歩いて、最後は俺の部屋の前に立ってる。部屋のドアをノックして……そこで目が覚める」
真由美は青ざめた。「それ、やばくない?」
亮太はうつむいたまま、「うん、自分でもそう思う」と言った。
その夜。亮太はいつものようにベッドに入った。眠る前にふと、ドアに目を向けた。何も変わったところはない。
だが夢の中では、またあの女がそこにいた。
「返して……返して……」
夢の中で女は何度も呟いた。今回は亮太の部屋の中に入ってきていた。彼の目の前に立ち、髪の隙間から、わずかに顔が見えた。
青白く、目だけが異様に黒く沈んでいた。
その瞬間、目が覚めた。冷や汗が全身を濡らしていた。
だが、もっと恐ろしいのは——ドアの下に、濡れた足跡が続いていたことだ。
「なんで……?」
亮太は震える手でスマホを取り、真由美に電話した。
「来てくれ、お願い……」
数十分後、真由美がアパートに駆けつけた。
「本当に足跡が……」
「俺、夢の中で……女が俺に何か返せって言ってきたんだ。でも、何のことか全然わからない」
真由美は黙って部屋の中を見回した。ふと、机の引き出しを開け、あるものを見つけた。
「これ……何?」
それは、古い櫛だった。木製で、ところどころに赤黒い染みがあった。
「ああ、それ……この前、古本屋で買ったんだ。面白い形してたから」
「バカ! こういうの、持ち帰っちゃダメって言ったじゃない!」
真由美は櫛を新聞紙に包み、「これ、神社に持っていこう」と言った。
翌日、二人は町外れにある神社を訪れた。巫女が櫛を見るなり、顔をしかめた。
「これは……とても悪いものです。持ち主の恨みが強く、この世に未練を残したまま、物に憑いています」
「返せって……夢の中で、女が言うんです」
「それは、自分の物が奪われたと思っているのです。供養すれば、霊は静まるでしょう」
巫女は櫛を持って本殿に入り、数時間にわたって祈祷が行われた。
その夜。亮太は久しぶりに、夢を見なかった。
朝、目覚めた彼は、心から安堵の息をついた。
——だが、数日後。
真由美から一通のメッセージが届いた。
『また夢に出た。今度は私の部屋に来てる』
亮太は驚愕した。「えっ……どうして?」
その夜、真由美の部屋を訪ねた亮太は、そこにあったもう一本の櫛を見て凍りついた。
「同じ古本屋で、亮太のとは別に私も買ったの……。言いそびれてて……」
それは、一対だったのだ。
櫛に宿る霊の未練は、まだ完全には解けていなかった。
その晩、二人は同じ夢を見た。
廃屋の中、あの女が立ち尽くしていた。
「……あたしのものを……すべて返して」
その声は、二人の耳に同時に響いていた。
そして、次の朝。
亮太と真由美の部屋には、それぞれ、長い黒髪が一房、床に落ちていた。
まるで、女がそこに立っていたかのように——。
彼らはすぐに神社に戻り、すべての物を奉納し、供養を依頼した。
巫女は静かに言った。
「霊は、物に宿ります。そして、夢を通して訴えてくることもあります」
それ以来、夢を見ることはなくなった。
だが、あの夜、夢で聞こえた最後の声だけは、今でも耳に残っている。
——「……あなたも、いつか、夢の中に来る」
数ヶ月後。
真由美はある日、大学の図書館で偶然、古い新聞記事を見つけた。
それは昭和初期の事件で、一人の若い女性が自殺したという内容だった。
理由は「許嫁に裏切られ、形見の櫛を取り返しに行ったが叶わず……」というもの。
場所は、亮太が夢で見た古びた日本家屋のある町だった。
女の名前は「佐和子」。彼女は死ぬ直前、櫛を二つに割って、それぞれを違う場所に隠したと記録されていた。
「あの櫛……あの霊は、佐和子さんだったの?」
真由美は呟きながら、静かに手を合わせた。
——佐和子の未練は、本当に断ち切れたのだろうか。
その夜、亮太は久しぶりに夢を見た。
だが、そこには霊の姿も家屋もなかった。
代わりに、一面の花畑に一人の女性が立っていた。
白い着物のまま、優しく微笑んでいた。
——「ありがとう」
その言葉と共に、女は風に溶けるように消えていった。
夢が終わったとき、亮太の頬には涙が流れていた。
本当に成仏したのだろう。そう信じたかった。
——だが、その次の週、大学の掲示板に一枚のビラが貼られた。
『町の古本屋「しらさぎ書房」閉店セール中。古道具・古書多数あり』
その中に、小さく写る櫛のような影が見えた気がした。
真由美はそのビラを破り捨て、そっと胸に十字を切った。
夢の中の霊は、いつかまた、誰かの元に訪れるかもしれない。
静かに、静かに、夢の中から——。

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