山姥の食卓
山姥の食卓
「そんな山奥に入っちゃダメだって、ばあちゃんが言ってたよ」
春菜は不安そうに眉をひそめた。
「迷信だろ?今時、山姥なんているわけないじゃん」
陽介は笑い飛ばしながら、手にした地図を広げた。
夏休みを利用して、仲良し四人組――陽介、春菜、圭介、美咲――は長野の奥深い山中へキャンプに来ていた。だが地図に載っていない獣道を見つけた陽介が、面白半分でその先へ進もうと言い出したのが、すべての始まりだった。
「なあ、もう少しだけ行ってみようぜ。何か廃村とかあったら面白くないか?」
「やめようよ、ほんとに気味悪い……」
春菜の言葉を無視し、陽介は先頭を歩き出す。
道なき道を30分ほど進んだところで、突然視界が開けた。そこには信じられないほど古びた茅葺屋根の家が一軒、静かに佇んでいた。
「うわ、本当にあった……」
「これ、住んでる人いないよね?」
圭介が近づいて戸をノックすると、軋む音と共に中から老婆が現れた。背中を丸め、髪は白く乱れているが、目だけは異様に光っていた。
「あらまあ、珍しいお客様だこと……よろしければ、休んでいかれませんか?」
四人は一瞬たじろいだが、老婆の笑顔に気を許し、家の中へ入ることにした。
囲炉裏の火は温かく、室内は意外にも清潔だった。老婆は茶を振る舞い、ふるまい酒まで持ち出した。
「お若い方々にこうして来ていただけるなんて、何年ぶりでしょうねぇ……」
春菜は妙な違和感を覚えていた。古民家の割には新しい茶碗、そして奥の部屋から微かに漂う生臭い匂い――それが何なのか、はっきりとはわからなかった。
「そうだ、お夕飯の支度をいたしましょう。こんな所まで来てくださったお礼に……山の幸をご馳走しますよ」
老婆は台所へ向かい、数十分後に鍋を抱えて戻ってきた。
「さあ、召し上がれ。今朝、捕れたばかりの肉で作った特製の煮込みです」
湯気の立つ鍋には、大きく切られた肉と根菜がたっぷり入っていた。陽介は何のためらいもなく、がつがつと食べ始めた。
「うめぇ! これ、何の肉っすか?」
老婆は微笑みながら、ひと言だけ答えた。
「人の味がするでしょう?」
一瞬、沈黙が流れた。
「えっ、じょ、冗談だよね?」
美咲が声を震わせた時、老婆の顔が変わった。しわくちゃだった皮膚が引き裂かれるように広がり、口が耳元まで裂け、黒い舌がのたうった。
「人間の肉じゃなければ、あの世に送り届けられませんからねえ……」
春菜は立ち上がり、叫んだ。
「逃げて!!」
圭介と美咲がドアに向かって走り出す。しかし、障子の先に広がっていたのは、見覚えのある林ではなかった。
「何これ……? 戻れない……!?」
外は霧に包まれ、足元がぐにゃぐにゃと歪んでいる。まるで、この家ごと別世界に取り込まれたようだった。
陽介は吐きながら倒れ込んだ。
「う……ぐ……な、なんで……腹が……熱い……」
老婆――いや、山姥の姿に変わった怪物は、陽介に歩み寄り、その身体をつかんだ。
「煮込みにはまだ足りないの。もっと……若い肉がほしい……」
「やめてええええええ!!」
春菜は座敷の刀掛けに飾られていた古刀を手に取り、山姥に向かって振りかざした。
「退けっ!!」
刀は意外にも山姥の腕を切り裂いた。悲鳴が響き、家中が揺れる。
「こいつら、ただの人間じゃないのかぁあああっ!!!」
隙を突いて三人は外へ飛び出した。霧の中を必死に走り、やがて木々の間から光が見えた。
「あれ……さっきの登山道じゃないか!?」
何とか元の世界へ戻った三人は、山を下り、警察に駆け込んだ。だが当然、山姥の話など信じてもらえるわけがなかった。
陽介の遺体も、あの家も、見つかることはなかった。
――それから三年。
春菜は心を病み、都内の精神科病院に入退院を繰り返していた。夜ごとあの山姥の声が夢に現れ、煮込み鍋の中に沈む陽介の目が彼女を見つめ続けた。
「お腹が空いたよ……春菜、お前が連れてきたんだろう……」
そんな幻聴すら聞こえるようになっていた。
ある日、彼女のもとに一通の封筒が届いた。中には古びた地図と、「今度はあなたが食卓を用意する番です」という手書きの手紙。送り主は不明だったが、文字は見覚えがあった。
美咲だった。
気が触れたのは自分だけではなかったのだ。
春菜は久しぶりに圭介と再会した。彼もまた、怯えた目でこう言った。
「俺たちは……呼ばれてるんだ。逃げても無駄だ。誰かが終わらせないと」
「でも、どうやって?」
圭介は重い口を開いた。
「山姥は供物を得ることでこの世に存在できる。供物が尽きれば、霧の中に消える。それなら――俺たちが“おびき寄せる側”になればいい」
「それって……人を犠牲にしろってこと!?」
春菜は怒りと恐怖に震えたが、圭介の瞳には覚悟が宿っていた。
「生き残るには、誰かを差し出すしかない」
それから半年後、長野県で四人組の大学生が行方不明になる事件が報じられた。最後に確認された場所は、地図にすら載っていない林道の奥――あの獣道の先だった。
春菜はニュースを見ながら、鏡に映る自分の目を見つめた。
「これで……満たされたの?」
だが、胸の奥に広がる虚無感は、満たされることなく疼いていた。
――食卓は、終わらない。
今夜もまた、誰かが霧の中で、山姥に呼ばれる。

コメントを投稿