鬼火の導き
鬼火の導き
それは梅雨の終わり、湿った風が山里を包む頃だった。
長野県の外れにある小さな村「神野(かみの)」では、昔から「鬼火(おにび)」と呼ばれる怪しい火の玉が山中を漂うという噂があった。
地元の者たちは決してその火に近づいてはならないと子供の頃から言い聞かされていた。
「おい、遥(はるか)、聞いたことある?あの山で夜に鬼火を見ると、二度と戻れないって話」
大学生の佐伯遼(さえきりょう)は、幼馴染の高橋遥と一緒に夏休みにこの村を訪れていた。遥の祖父母の家がこの神野にあり、避暑地として静かな時間を過ごすつもりだったのだ。
「うん……おばあちゃんが昔言ってた。『鬼火は死者の道案内』なんだって」
「道案内?」
「うん。この世からあの世へのね」
遥は少し真剣な表情で答えた。その夜、二人は祖父母の家で夕食を終えた後、縁側に並んで座り、静かな夜を眺めていた。
空は月もなく、星がはっきりと見えた。
そのときだった。
山の中腹に、ぼんやりとした青白い火が揺れていた。
「あれ……見て!」
遥が指差した方向には、確かに不自然な光が浮かんでいた。
「……あれが鬼火か?」
遼はスマホを手に取ったが、遥に制止された。
「ダメ、撮っちゃ。連れていかれるよ」
「またまた……幽霊じゃあるまいし」
だがその夜、遼は夢を見た。
夢の中で彼は一人、暗い山道を歩いていた。
足元に浮かぶ青白い火の玉が、まるで誘導するように道を照らしていた。
彼はなぜか逆らえず、その火を追いかけ続けた。
そして夢の終わり、古びた鳥居の前に立たされた。
鳥居の奥には朽ち果てた祠があり、そこに何かがいる気配がした。
気がつくと、火の玉がその祠の中へと吸い込まれていった。
――目を覚ましたとき、遼は冷や汗でシャツを濡らしていた。
「夢……だよな」
だが、彼の足元には泥がこびりついていた。まるで本当に山中を歩いたかのように。
「おばあちゃん……このあたりに祠なんてあるの?」
朝食の席で遥が祖母に尋ねると、彼女は箸を止めて顔を曇らせた。
「……まさか、見たのかい?鬼火を」
遼と遥は黙って頷いた。
「あの祠は『封じられた場所』だよ。村では『沈み森』って呼ばれてる。昔、疫病で多くの人が死んだ場所でね、怨念が祠に封じられてるって言われてる」
「でも、今も火の玉が……」
「それがね、毎年、あの火を追った者が行方不明になるのよ」
祖母の話に背筋が凍った。
遼はあの祠に引き寄せられる感覚を忘れられなかった。
そして、二日後。
遼が忽然と姿を消した。
遥は警察や村人と一緒に山を探したが、どこにも彼の姿はなかった。
――それから一年後。
遥は再び神野の村を訪れた。遼の失踪は未解決のままだったが、心のどこかで彼があの祠にいるという確信があった。
彼女は一人で山へ向かった。
沈み森。誰も近づかないその森の入り口に、あの鳥居があった。
草に覆われ、朽ちかけた鳥居をくぐると、空気が一変した。
風が止まり、虫の声も消えた。
その奥に、夢と同じ祠があった。
「……遼……いるの?」
その瞬間、青白い火がふわりと宙に現れた。
「……導かれてきたんだな」
誰かの声が耳元で囁いた気がした。
火は静かに祠の中へと消えていった。
遥が中を覗くと、そこにはぼろぼろの服を着た男が、正座していた。
――遼だった。
「遼っ!」
彼はゆっくりと顔を上げた。だが、その瞳には焦点がなかった。
「ここが……正しい場所なんだ……もう、戻れない……」
「違う!一緒に帰ろう、お願い、思い出して!」
そのとき、祠の奥から無数の鬼火が現れた。
それは遥の体に巻きつき、意識を奪おうとした。
しかし、彼女は強く叫んだ。
「遼、私の声が聞こえるなら……帰ろう!」
祠の空間が一瞬、揺れた。
遼の目に光が戻った。
「……遥……?」
火は消え、空気が戻った。
遼は倒れこみ、遥が支えた。
数時間後、二人は無事に村へ戻った。
その後、祠は村の手で封鎖され、誰も近づかぬよう祈祷師が儀式を行った。
だが、遼の記憶は完全には戻らなかった。
彼は時折、夜になると窓の外をじっと見つめ、「あの火がまだ呼んでる」とつぶやくことがあった。
遥はそれがただの後遺症であってほしいと願った。
ある晩、村の神社で夏祭りが開かれた。
太鼓の音と提灯の明かりが山里を照らす中、遼はふらりと姿を消した。
遥が探しに出ると、山のふもと、あの鳥居の前で遼が立ち尽くしていた。
「遼、何してるの!?戻って!」
彼は振り返り、微笑んだ。
「今度は、俺が導く番かもしれない」
その言葉とともに、彼の周囲に青白い火がふわりと現れた。
まるで、彼が新たな“案内人”として選ばれたかのように。
「だめ……行かないで……!」
遥の叫びも届かず、遼の姿は鬼火とともに森の闇へと溶けていった。
それから数年、神野の山ではまた鬼火の目撃例が増えた。
そして、火を追いかけた者は、必ず一人、行方不明になるという。
――鬼火の導き、それは“冥界の案内役”の継承。
今も誰かが、あの火に呼ばれているのかもしれない。

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