黒い傘の秘密
黒い傘の秘密
梅雨の終わり、東京の郊外に住む大学生・佐藤陽介(さとう ようすけ)は、通学途中に一本の黒い傘を拾った。
その傘は公園のベンチに置き忘れられていたもので、雨の降る朝、濡れたくなかった陽介は何の気なしにそれを手に取った。
「ラッキー……誰も使ってないし、借りるだけならいいよな」
その黒い傘は、一見普通のビニール傘に見えた。しかし、持ち帰ったその日から、陽介の周囲で奇妙な出来事が起こり始めた。
まず最初に気づいたのは、傘が常に濡れていることだった。
晴れた日でも、部屋の中でも、傘の先端から水が滴り落ちていた。
「おかしいな……さっきまで乾かしてたはずなのに」
さらに、夜になると、玄関から「コン、コン」と濡れた何かが床を叩くような音が聞こえるようになった。
だがドアを開けても、誰もいない。
数日後、陽介の夢に、見知らぬ女が現れた。
長い黒髪に白い顔、そして黒い服を着て、雨に濡れたままじっとこちらを見つめていた。
「返して……」
女の口がゆっくりと動き、低く響く声が陽介の耳元に届く。
「それは……わたしの傘……返して……」
目を覚ますと汗びっしょりだった。夢の中で濡れていたはずの床が、現実でもしっとりと湿っていた。
「これはもう……ただの夢じゃない……」
陽介は傘を元の公園に戻すことにした。しかし、公園のベンチはすでに撤去され、工事のため封鎖されていた。
その夜、女は再び現れた。今度はより近く、陽介の部屋の中、ベッドの足元に立っていた。
「返して……」
女の髪からは雨水が滴り、畳に染みを作っていた。陽介は思わず叫び、傘を手に取り、ベランダから放り投げた。
しかし翌朝、傘は玄関に立てかけられていた。乾いているはずの朝だったのに、床には水たまりができていた。
陽介は傘の正体を探るべく、大学の図書館で「呪物」や「遺留品」に関する書籍を読み漁った。その中で、江戸時代から伝わる「怨傘(えんさん)」の話を見つけた。
――死者が未練を残した物品に魂が宿り、生者のもとに現れては取り戻そうとする。
「まさか……この傘も……」
陽介は傘を持って町の古道具屋を訪れた。その店の老店主は、傘を見るなり表情を強張らせた。
「それは……あんた、どこでこれを……」
「公園で拾いました。最近、変なことが起こってて……」
老店主はゆっくりと頷いた。
「それはな、数年前、あの公園で女性が自殺したときに持ってた傘に違いない。川に身を投げる前、最後に残っていたものだ」
陽介は意を決し、その傘を持って川辺へ向かった。女が命を絶ったという場所へ立ち、傘をそっと地面に置き、両手を合わせた。
「ごめんなさい……知らずに持って帰ってしまいました。どうか……安らかに……」
その瞬間、空が曇り、静かに雨が降り始めた。傘が風に吹かれ、音もなく川へ滑り落ちた。
その夜、夢に女は現れなかった。
部屋の床は乾いたままで、音も、気配も何もなかった。ようやく、解放されたのだ。
だが、話はここで終わらなかった――
数日後、陽介のもとに一通の封筒が届いた。差出人不明。中には古びた写真が一枚入っていた。
写真には、陽介が拾った黒い傘を差して微笑む女性が写っていた。背景はまさに、あの公園。
しかし、その写真の裏にはこう書かれていた。
「見つけてくれて、ありがとう」
ぞっとした陽介は、再び図書館へ向かった。地元の新聞アーカイブを調べていくと、ある事故の記事が見つかった。
数年前、近くの川で若い女性が行方不明となり、遺体は発見されなかったという。そして、その女性が最後に目撃されたのが、公園のベンチだった。
陽介はその名を見て凍りついた。
「中村志保(なかむら しほ)」——彼の小学校の時の同級生だった。
「あの傘……もしかして……志保のだったのか……」
陽介の記憶の奥に、雨の日に傘を貸してくれた少女の姿が蘇る。
「陽介くん、濡れないように。これ、使って」
小さな笑顔とともに、黒い傘を差し出してくれた彼女。
いつしか転校して会わなくなったが、あの傘が彼女のものである可能性に陽介は震えた。
その夜、玄関のチャイムが鳴った。
時計を見ると、午前2時12分。
「……誰だよ、こんな時間に……」
ドアを開けると、誰もいない。だが足元には、濡れた新聞紙の上に乗った黒い傘が静かに置かれていた。
そして次の日、陽介のスマホに非通知の着信があった。
「……はい?」
数秒の沈黙のあと、懐かしい少女の声が聞こえた。
「……陽介くん……ありがとう……でも、まだ……終わってないの」
「し、志保……?本当に君なのか……?」
「この傘を……最後まで、届けて……」
「届ける?どこに……」
通話はそこで切れた。
陽介は写真を持って再び古道具屋を訪れた。老店主は写真を見て、神妙な面持ちで口を開いた。
「この娘……この傘の持ち主に違いない。だが“最後まで届ける”とは、もしかすると未練の場所がまだあるのかもな」
「未練の場所……?」
「誰かを待ってたか、誰かに何かを伝えたかったか。心残りが傘に宿っていたなら、まだ終わってない可能性がある」
陽介は思い出した。昔、志保がよく言っていた言葉を——
「大人になったら、一緒に富士山に登りたいな」
それが叶わなかった約束なら、そこに何かあるのかもしれない。
夏の終わり、陽介は黒い傘をリュックに詰め、富士山へ向かった。
五合目まで登ったとき、空が急に曇り、霧の中に少女の影が現れた。
「志保……?」
影は微笑み、そしてゆっくりと霧の中へ消えていった。
陽介は傘を地面に立て、静かに手を合わせた。
「これで……君は自由になれるか?」
その瞬間、霧が晴れ、空にわずかな光が差した。
――黒い傘は、それきり消えてしまった。
翌朝、陽介が目を覚ましたとき、リュックの中にも、部屋にも、もう傘の影はなかった。
けれど、雨の日。駅の構内でふと振り返ると、遠くに黒い傘を差す少女の影が見えることがある。
それは、きっと……ありがとうを伝えに来た彼女の、最後の微笑みだった。

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