暗い洞窟の奥

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暗い洞窟の奥

暗い洞窟の奥

「この村の外れにある山には、決して入ってはならない洞窟があるんだ。」
そう言って、老人は震える手でタバコを押しつけた。
大学で民俗学を研究している私は、その話に強く惹かれた。フィールドワークの一環として、地方の古い伝承を集めていた私は、東北の山奥にある小さな村「黄影村」を訪れていた。

「どうして入ってはいけないんですか?」
私が尋ねると、老人は目を細め、声を低くした。

「昔、その洞窟に入った若者が二度と戻ってこなかった。それ以来、あそこからは夜になると呻き声が聞こえてくるんだ。」

信じ難い話だったが、私はその洞窟に向かうことを決めた。
翌朝、村の裏山に登ると、鬱蒼とした木々の間にぽっかりと開いた洞窟の口を見つけた。空気は異様に冷たく、まるで何かに見られているような圧迫感があった。

「誰かいるんですか?」
私は懐中電灯を手に、声をかけながら奥へと進んだ。
洞窟の中は湿っており、滴る水音がこだましていた。最初の数十メートルは自然の岩場だったが、やがて人の手が加えられたような石造りの階段が現れた。

「これは……人工物か?」
私は慎重に足を踏みしめながら降りていった。すると、何かが風を切るような音と共に私の背後を通り過ぎた。

「誰だ!?」
振り向いても誰もいない。ただ、懐中電灯の光の先に、白い布のようなものが岩陰に消えたのが見えた。

やがて、広間のような空間に出た。そこには無数の石像が並んでいた。一体一体、苦悶の表情を浮かべ、口を開けたまま叫んでいるような姿だった。

「何だこれは……」
そのとき、背後から女のすすり泣く声が聞こえた。

「う……うぅ……たすけて……」

「誰だ!?どこにいるんだ!」
私は声のする方に懐中電灯を向けた。そこには、長い黒髪の女が背を向けて座っていた。

「大丈夫ですか?今助けます!」
近づこうとした瞬間、女は首だけをこちらに振り返った。
その顔には、目も鼻もなく、ただ大きく裂けた口が笑っていた。

「みつけた……」

私は叫び声を上げて後ずさり、足を滑らせて倒れた。懐中電灯は床に落ち、辺りは闇に包まれた。

闇の中、石像たちがかすかに呻き声を上げるような音が聞こえ始めた。

「う……うぅ……かえして……」
その声が次第に重なり合い、悲鳴のようなうねりとなって洞窟全体に響き渡った。

私は這うようにして洞窟を抜け出そうとした。しかし、通ってきたはずの道が見当たらない。代わりに、知らぬうちに別の通路に迷い込んでいた。

「嘘だろ……こんなはずじゃ……!」
絶望感に包まれながら、私は一つの扉の前に立っていた。それは木製の古びた扉で、かすかに血のようなものが染みていた。

「開けるしかない……」
扉を開くと、そこには一冊の古い日記帳が置かれていた。私は震える手で日記を開く。

「昭和五十二年十月十二日――今日も出口が見つからない。あの女がまた現れた。笑いながら俺の耳を引き裂いた。助けてくれ、誰か……」
ページの隅には、赤黒い手形が押されていた。

その瞬間、後ろから肩を掴まれた。
「に……げられない……」
振り返ると、例の女がそこにいた。目のない顔で、裂けた口がにやりと開く。

「あたしと一緒に……ここにいようよ……」
「いやだああああああああああ!」

私は叫びながら再び走り出した。奇跡的に、地上からの光が差し込む裂け目を見つけた。全身を使って登り、ついに外の世界へと這い出した。

村に戻った私は、全身泥だらけで息を荒げていた。老人が驚いた顔で駆け寄ってきた。

「あんた……無事だったのか!?洞窟から出た人間なんて、今まで一人もいなかったんだぞ!」
私はうなずきながら、背後の山を振り返った。
そのとき、私の耳元で女の声がささやいた。

「まだ……終わってないよ……」

私は凍りついたように動けなかった。
それ以来、夜になると、私の夢にはあの女が現れる。
裂けた口で笑いながら、こう言うのだ。

「こっちの世界に……早くおいでよ……」

――暗い洞窟の奥には、決して目を向けてはならない何かが存在する。
私はその事実を、骨の髄まで思い知らされたのだった。

だが、恐怖はそれだけで終わらなかった。帰京して数日後、私は鏡を見るたびに誰かの背後に立つ影を感じるようになった。夜中、耳元で「たすけて……」というかすかな声が繰り返される。

さらに奇妙なのは、あの日洞窟で拾った日記帳が、研究室の机の引き出しにいつの間にか入っていたことだ。私は誰にもその話をしていないし、村から何も持ち帰らなかったはずだった。

ページをめくると、新しい記録が追加されていた。
「令和七年五月――次はお前の番だ。もう逃げられない。」
手が勝手に震え、視界が歪んだ。背後から濡れた髪の毛の感触が首筋を撫でた。

「まだ終わってないんだよ……」

私はついに大学を休学し、実家に引きこもるようになった。だが、あの女の囁きは止まらない。夜になると押し入れの戸が勝手に開き、そこから湿った風と共に呻き声が漏れ出す。

祖母がふと口にした。「あんた、黄影の呪いを受けたね。昔うちの親戚も同じように洞窟に惹かれて……狂って死んだよ。」

私が調べた古文書にはこう記されていた。
「黄影の山に眠るは、冤魂数百。封じられしは盲目の巫女。その唇、閉じれば世界も静まる。だが、その口が開かれる時、黄泉の門もまた開かれん。」

あの裂けた口の女――彼女は、盲目の巫女のなれの果てなのか?
今夜もまた、私の部屋の壁からすすり泣く声が聞こえてくる。
私は知っている。次に洞窟へ引き寄せられる者が、もう決まっているのだ。

そして――この話を読んでいる、あなたかもしれない。

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