恋人の裏切り
恋人の裏切り
秋の終わり、山奥にひっそりと佇む小さな村「夕霧村」に、一組のカップルが訪れた。男の名は涼介(りょうすけ)、女の名は真奈美(まなみ)。都会の喧騒を離れ、二人はこの静かな村で数日間を過ごす計画を立てていた。
「やっと来れたね、涼介。こういう場所、大好きなんだ」
「お前が喜んでくれるなら、それでいいさ」
二人は古民家を改装した宿に泊まり、地元の名物を楽しみ、夕暮れの湖を散歩しながら愛を語り合った。しかし、真奈美には涼介に言えない秘密があった。
涼介は優しく誠実な男だったが、真奈美の心には別の男がいた。その男の名は達也(たつや)。都会に残してきたその男との関係は、ただの浮気ではなく、本気だった。
ある晩、真奈美は宿の縁側でスマホを取り出し、こっそり達也にメッセージを送っていた。
「ねぇ、戻ったらすぐ会いたい。やっぱり、私にはあなただけだよ」
そのメッセージを、涼介は偶然見てしまった。
「……どういうことだよ、真奈美」
涼介の低く震える声に、真奈美は一瞬固まった。
「違うの、これは……ただの友達で――」
「俺に嘘をつくな!」
怒りと悲しみが入り混じる涼介の顔を見て、真奈美は恐怖を感じた。彼の目は、どこか壊れていた。
翌朝、村人たちは湖畔で涼介が一人佇んでいるのを見つけた。
「あれ?一緒に来てた彼女さんは?」
「……先に帰った」
涼介はそれだけ言って、村を後にした。だが、真奈美の姿をその後見た者は誰もいなかった。
数週間後、村の湖で若い女性の死体が浮かんでいるのが見つかった。顔は膨れ上がり判別できなかったが、身につけていたペンダントから真奈美であると断定された。
警察は事件として捜査を進めたが、証拠不十分で涼介は不起訴となった。だが、彼の周囲では奇妙な出来事が起き始める。
――夜、誰もいない部屋でスマホに「裏切らないって言ったのに」と通知が届く。
――風もないのにカーテンが激しく揺れる。
――鏡に、血まみれの女の顔が一瞬映る。
涼介は次第に精神を病んでいった。
「……やめてくれ、許してくれ、俺は……俺は……」
その言葉を最後に、彼は自室で首を吊って死んだ。遺書には「真奈美が、真奈美が来る」とだけ書かれていた。
しかし、話はこれで終わりではなかった。
真奈美が死んだ湖――「夕霧湖」では、それ以来、ある怪談が語られるようになった。
「夜の湖に近づくと、水面に女の姿が映る。長い髪を濡らしたその女は、恋人を探しているんだって……裏切った男を、ずっと、ずっと……」
大学の心霊サークルのメンバーである千尋(ちひろ)は、その噂を聞いて現地を訪れた。彼女は好奇心から村の古い記録や住民の話を集め、真奈美の話に行き着いた。
「……これはただの噂じゃない。何かが、本当に湖にいる」
千尋は録音機とカメラを持って、深夜の湖に向かった。霧が立ち込める中、湖面に白いものが浮かんでいるのを発見する。
「なに……あれ……?」
白いワンピース。濡れた長髪。顔はぼやけていたが、明らかに人間ではなかった。
「裏切らないって……言ったのに……」
その声が、霧の中から聞こえた。
「うわぁああああああああっ!!」
千尋は慌てて逃げ帰ったが、録音機にははっきりと女の声が残されていた。「涼介……どうして……」というすすり泣く声。
その録音は今もサークルの部室で保管されているが、再生すると必ず電気がチカチカし、部屋の温度が一気に下がるという。
ある学生がその音声をSNSにアップしようとした瞬間、スマホが爆発したという噂もある。
さらに奇妙な話が続いた。翌月、心霊研究のために東京から来た若い霊能師・山城遥(やましろ はるか)が、真奈美の霊と対話するため湖に訪れた。
「この場所……すごく、重いわ。まるで、恨みが地に染みついているみたい」
彼女は供養の儀式を行おうとしたが、その夜、湖の水位が急激に上がり、霧が異常な速さで辺りを覆った。
「やめて……ここに入らないで……」
遥の耳に、女性のかすれた声が届いた。次の瞬間、彼女の背後に冷たい気配が現れ、首筋に氷のような手が触れた。
「私は、信じたのに……殺されたの……」
遥は気絶し、村人に発見されたときには震えが止まらず、二度と霊視を行うことはなかったという。
真奈美の霊は、ただの怨霊ではない。彼女は裏切られた愛、騙された信頼、そして命を奪われた苦しみから、生者の世界に留まり続けているのだ。
近年、湖に観光で訪れたカップルが次々と不審な事故に巻き込まれている。溺死、自殺、行方不明……その多くは、男が命を落とし、女が呆然と湖を見つめていたという共通点がある。
「あの女の霊が、他の女の体を借りて復讐してるんだ」
という噂が、村では密かに囁かれている。
村の年配者の一人、志村(しむら)婆さんはこう語る。
「真奈美さんは、死んでも恋人を信じてたのさ。けど、それが裏切りだったと知ったときの絶望は、人の形を保てんほどのものだったろう……」
夕霧湖は今も静かだ。湖畔には真奈美の慰霊碑が建てられ、花が絶えることはない。しかしその傍に立つと、不思議と涙がこぼれるという。
「裏切らないって言ったのに」
もしこの湖を訪れるなら、一人で行かないこと。特に、恋人と喧嘩した直後には絶対に近づかないこと。
真奈美は、今もそこで誰かを待っている。愛を信じて、裏切りの続きを問うために……。

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