声の幻聴
声の幻聴
「……ねえ、聞こえる?」
その声は、誰もいないはずの部屋の中から聞こえてきた。
都内で一人暮らしを始めた大学生の美月(みづき)は、ある日を境に誰かの囁き声を聞くようになった。引っ越してきたばかりのワンルームマンションは築年数こそ古かったが、家賃は安く、駅からも近かった。
「きっと隣の部屋の声が聞こえてるんだよね」
最初はそう思っていた。しかし、その声はいつも同じ言葉しか言わない。
「聞こえる……?」
耳元で囁かれるようなその声は、深夜になると必ず聞こえる。時計が午前2時を指すと、決まってその囁きが始まるのだ。
ある夜、美月は我慢できず、スマホで録音を試みた。
翌朝、録音データを確認すると、確かに何かが録音されていた。
「きこえる……ねえ、こっちにきて……」
その声はかすれていて、性別すら判断できなかった。
「まさか、本当に……?」
怖くなった美月は、親友の香織(かおり)を部屋に招いた。
「また声が聞こえたら、録音してくれる?」
香織は首を傾げながらも頷いた。
「いいけど……それ、精神的な疲れとかじゃないの?」
その夜、二人で深夜2時を待った。
しばらくは何も起こらなかった。
だが、時計の針がちょうど2時を指した瞬間——
「ねえ……見てるよ……」
声が、部屋の隅から聞こえた。香織は顔を真っ青にし、声を震わせた。
「今の……聞こえたよね……?」
「うん……やっぱり私の幻聴じゃなかった……」
美月は意を決して、不動産会社に電話をかけた。
「すみません、この部屋……何か事故とか、ありましたか?」
一瞬の沈黙のあと、担当者が小声で答えた。
「……実は以前、この部屋で女性の自殺がありまして……詳しくは言えませんが……」
美月の手が震えた。
「まさか、その人の……声……?」
香織がネットで調べたところ、その女性は5年前、この部屋で首を吊って亡くなっていたという噂があった。
その晩、美月は夢を見た。
真っ暗な部屋の中、天井から誰かが吊るされている。
ゆらゆらと揺れるその影が、次第にこちらを見つめてきた。
「こっちに……きて……」
目が覚めると、部屋の空気が異様に重く感じた。
「これは……もう無理かも……」
翌日、美月はお祓いを受けに近くの神社へ向かった。神主は彼女の話を聞くと、真剣な顔で言った。
「それは、成仏できていない魂の仕業でしょう。あなたに助けを求めているのかもしれません」
美月は部屋に戻り、線香を焚きながら祈った。
「もういい加減、成仏してください……あなたの声、もう聞こえたから……」
それから数日は、声が聞こえなかった。ようやく落ち着いた日常が戻ったかに思えた。
だが、ある晩——再び、あの囁きが耳元で囁かれた。
「聞こえたのに……なんで、忘れるの……?」
美月は叫びながら飛び起きた。部屋の鏡を見ると、自分の後ろにもう一人、白い顔の女が立っていた。
翌朝、香織が美月の家を訪れたが、インターホンに応答はなかった。
鍵は内側からかかっており、部屋の中に誰もいない。
ただ、机の上には一つのレコーダーと、震えるような文字で書かれたメモが残されていた。
「もう、私もあの声の中にいる」
その日から、美月は行方不明になった。
そして、誰もいないはずの部屋からは今も、深夜2時になるとこう囁く声が聞こえるという。
「聞こえる……? ねえ、次はあなたの番……」
さらに数ヶ月後、その部屋には新しい住人が入った。
若い社会人の佐々木翔太(ささきしょうた)は、安さにつられて契約したが、入居初日の夜から妙な違和感を覚えた。
「ん……なんだこの部屋……やけに寒いな」
夜、ベッドに入って眠ろうとすると、どこかからかすかな声が——
「……きこえる……?」
翔太は身を起こした。
「……え? 今、誰か喋った?」
テレビも、スマホもオフだった。隣の部屋にも物音はない。
「聞こえた気のせいだよな、はは……」
だが、翌朝目覚めると、壁に奇妙な落書きがあった。
「わたしはここにいる」「きみの声も、ちゃんと聞こえてるよ」
翔太は一気に血の気が引いた。
数日後、翔太は管理会社に連絡を入れた。
「すみません、この部屋って、何かありましたか?」
「あ……そ、それは……詳しくはお伝えできませんが……」
その曖昧な対応に翔太は確信した。
その夜、翔太は眠らずに待機した。深夜2時、また声がした。
「ねえ、聞こえるでしょ……? 私、ここにいるよ……」
翔太が鏡を覗くと、そこに映っていたのは自分だけではなかった。
彼の背後に、髪の長い女が顔をこちらに向け、静かに微笑んでいた。
翔太は叫びながら部屋を飛び出した。
そのままホテルに数泊し、荷物も放置して退去の手続きをした。
数年後——
あの部屋は何度も住人が変わっていた。誰も長く住み続けることができなかった。
そして今も、あのワンルームの一室から、
「ねえ、聞こえる……? あなたも、私と同じ声を聞いて……」
という幻聴が、深夜2時にだけ響いているのだという。

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